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第4話 腸とわたし

おいしいという感覚は根源的なものだ。どこで感じているのかというと、舌のセンサーで分析し、喉や鼻から食感や香りの情報を受け止め、脳内に信号が送られて、あのうっとりするような満足感が得られるのだという。だけれども、食べる前に「あれが食べたい」と思う気持ちはどこからきているのかといえば、どうやらそれは、腸内細菌が指令しているのではないかと、最近わたしは考えているのだった。腸のなかには約3万種類1000兆個ともいう菌が生息している。彼らが食べたいものが、すなわちわたしが食べたいものでもある、と思う。食べたい時がうまい時、とはよく言ったものですね。

「おいしい」を決めているのが菌だ、ということになると、味覚なんてものが絶対的ではないということがわかる。腸内細菌には善玉菌、悪玉菌、どちらにも与する日和見菌がいて、勢力分布はつねに変化している。どの菌が優勢かによって、何をおいしいと思うかさえ変わってしまうということになる。

腸内細菌のことを調べているわたしのもとへ、ある日衝撃的な情報が飛び込んできた。生きた化石カブトガニはなんと「口と腸のあいだに脳がある」というのですよ! 食べたものは脳を通って腸に行く、そんなナンセンスな、、、、。でも、よくよく考えてみれば、人間だって、食べ物を脳でおいしいと感じてから腸に届けているではないか? ちなみにカブトガニの血液は青いらしい。まだ海中に鉄が溶けていなかった頃のなごりで、青は銅を含むヘモシアニンの色だそう。蛸や烏賊など軟体動物も同じタイプらしい。

「蛸の血液は青色なんですって・・・」とは言えなかったのだが、今回も行く先々で蛸のサンダルのイラストを描いていただいた。大阪では、岸辺から北新地へと移転した人気ブーランジェリー ル・シュクレ・クールのオーナー岩永歩さんとマネジャーの横田益宏さん。

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「うわっ、ゾワゾワする。。。」と身震いしながら描く岩永さん。

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確かに・・・目が離れた感じとか、足が分散していくさまとか、ゾワゾワ。サンダルは描けなくて、パンプス。

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横田さん。店名を書く時にスペルを間違えてはいけないと雑誌を確認。わりと几帳面。

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ハチマキしたおじさん風、横田さんの蛸。よこた、のサインに「たこ」が隠れてる、の図。

翌週。御影の老舗ベーカリー「ケルン」壷井豪さん、「ブーランジェリ ビアンヴニュ」大下尚志さんとともに、最近芦屋に開業したばかりのパティスリー「エトネ」へ。神戸のイグレックプリュスで製菓長を務めていた多田征二さんが独立したお店。店名を聞いても「えとね、うんとね」と冗談ばっかり。本当は、エトネ=驚く、という意味のようです。

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左からビアンヴニュ大下さん、エトネ多田さん、ケルン壷井さん。「サンダルが難しいよなあ」とうなる。

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壷井さん。悩んで悩んで書きました。

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かわいい系だけど、サンダルがちがうものに見える。

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大下さん。片足を台にのせ、やっつけちゃる的なポーズで。

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大下さんのサンダル、サーフボードみたいになってますよ?。

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多田さん。一筆描くたびに、目を上げてこちらを確認。なぜ?「怖いもん」

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多田さんの蛸。ちょっとずつ描いたとは思えない、なめらかなライン。片足立ちの蛸。

みなさんブーランジェ、パティシエとして日々すばらしい造形美を生み出しているのだが、蛸というテーマが案外に悩ませるみたいで。
「ふだん蛸なんて描かないしなあ」
とため息をつくシェフも多いなかで、理由も聞かず爽やかに「いいよ!」とペンをとり、サラサラと描いてくれたのが、こちらのお方。

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世界的パティシエ、辻口博啓さん。辻口さんは蛸を頭から描かない。スウーッと線を引いたかと思うと、それは・・・

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長くのびた一本足なのでした。先端にハイヒール。飴細工みたいですね。よく見るとサインの横に「まれ!」の文字。

以前、辻口さんの著書を発売した記念に、代官山の蔦屋書店でトークイベントをご一緒した時のことだが、聴衆のひとりが質問をした。辻口シェフはなぜいつもポジティブに笑顔でいられるのか?しんどいことやつらいことなどをどうやって乗り越えていますか?

辻口さんはふと真顔になり、
「僕は・・・」
と口を開いた。僕はいつも”死”というものを考えています。人生は短く、ネガティブになったり、くよくよと悩んでいる時間はない。生きている間は全力で楽しんでやろうと、思っています。実力で人生を切り開いてきた人らしい、鮮やかな答えだった。

研究によると、腸内細菌は消化を行なうだけでなく、免疫の7割をにない、ホルモンやビタミンを合成し、幸せを感じる脳内物質ドーパミンやセロトニンまでつくり出しているという。人間の気持ちや感情も動かすのだから、ポジティブな人の腸内細菌もきっとポジティブなんだろう。ぬか床とは別れてしまったけれど、シェフたちをみならって、腸内細菌はポジティブな方向に育てていきたいと思うのでありました。


著者プロフィール
月刊連載『蛸のサンダル』毎月6日公開
icon_asai浅井 裕子

出版社 柴田書店勤務。外食業担当からキャリアをスタートし、料理技術、宿泊業、製菓製パンなど幅広いジャンルをカバーする食の編集者。パティシエの小山進さんや辻口博啓さんの書籍などを担当。「mook 洋菓子材料図鑑vol.4」編集長、「mook The Coffee Professional」編集長など。趣味はベランダ園芸。今夏はジャガイモとナスを栽培中。