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月の本棚 十二月 遠い太鼓

突然、ミッションインポッシブルな仕事が目の前に音もなく置かれて、嗚呼!どうなることかと思った、この12月。

しかし、どんな時でも読むことは、食べることや眠ることと同じくらい、わたしにとって大切なことなのだ。この冬の初めは『遠い太鼓』とともに過ごした。四半世紀も前に読んだきりなので、新鮮な気持ちで。

『遠い太鼓』は村上春樹が日本を脱出してギリシャとイタリアで暮らした日々の記録だ。
想像力と描写力ゆたかな作家が記すと、旅の記録はなんておもしろくなるんだろう。

脱出。わたしはひととき、脱出したかったのだ。

旅は、いま居るこの世界からの脱出で、解放の行為だ。
旅先にも旅先なりの、従わなければならないルールや常識が存在して、それなりに「やれやれ」と疲弊はあるのだが、1コマ1コマは美しい、あるいはユーモアに満ちた映像のようだ。深夜、仕事を終えて眠りに落ちるまでの時間に、それを眺めることもまた、静かでゆるやかな解放だった。

映像的なシーンを5つ挙げたい。

ギリシャの島の広い映画館。ガラガラに空いた真ん中の席に夫婦で座っている。天井が開いていて星が見える。スクリーンの前を大きな黒猫がのっそりと横切っていく。漫画みたいだ。

アパートを去る雨の朝、湯を沸かし、コーヒーを淹れ、パンケーキを焼いて、トマトを切って、塩とレモンをかけて、香草を刻んでふりかけて食べる。冷蔵庫の残り物をきれいさっぱりと片付けてしまうのだ。なんでもない日常も、期間限定を意識すると、愛おしくなる。

ホテルでクローゼットの鍵が折れてしまい開かなくなったとき、メイドのおばさんが大理石で金具を叩きつぶして開けてくれる。タイトルは「クローゼットの虐殺」。こういう嘘のような本当の話が昔から大好きだ。

雨の日は部屋に籠って本を読み、雨を眺めながらタヴェルナで魚料理を食べ、遠くに来たなぁと思っている。音がこもり、冷え過ぎた白ワインの瓶が汗をかいている。仕事が一段落して、しなくてはならないことがなにもない。暗くつめたい描写なのに、思わず微笑んで伸びをしたくなる(早く、そこに行きたい!)。

林の中の小屋のような美術館。入館料50円。セオフィロスという放浪の画家の絵が100もびっしりと展示されている。ナイーブ・アートだ。稚拙だが訴えかける。「一目見た瞬間から僕は彼の絵が大好きになってしまった」。こういう人たちがかつて実際に存在し、死んでいったことが実感として伝わってくる絵。

わたしも束の間、そこにいた。

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『遠い太鼓』村上春樹著(講談社1990)


著者プロフィール

月刊『月の本棚  清水美穂子のBread-B』毎月24日公開
icon_shi 清水美穂子
ライター・ブレッドジャーナリスト

普段はBread+something good(パンと何かいいもの)をテーマに執筆・発信していますが、ここではBread-B。Bを外してしまって、Reading周辺のsomething goodを書いていきたいと思います。
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