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第十色 二月

 一年前の二月、私の父がこの世を去った。
 死因は肺ガンだった。
 会社を定年退職してすぐに受けた健康診断で肺ガンが見つかり、以来、七年間のらりくらりとガンの攻撃をかわしていたが、とうとう最後に捕まってしまった。
 とにかく煙草を吸う父であった。酒も非常にたしなんだ。私がいまだ煙草を一本も吸ったことがないのは、父の影響である。家でまったく酒を飲まないのも、家族の前で酔っている姿を見せることに本能的な怖れがあるからで、これもまた父の影響である。きっと私の子どもは大人になったら煙草も吸うし、家で酒も飲むと思う。習慣の隔世遺伝というやつである。
 やめろやめろと母から何度言われても、父はたばこも酒もやめなかった。ガンが見つかってからはさすがに煙草はやめたが、代償は大きすぎた。しかし、いざガンになってしまった人を前に、そら見たことかと言う気にもなれず、薬でうまく叩けたと思ったら、また別の場所で、かたちを変えて現れるガンとのいたちごっこを目の当たりにして、「がんばれ」と言葉をかけるのも逆にしんどいだけではないかと下手に気を遣い、結局は生温かく見守るしかできなかった。
 
 一年と少し前、ガンの勢いがぶりかえしてきて、治療に忙しくなったあたりに実家に電話した際、電話口に出た父に、
「なんか大変そうやね」
 と伝えると、
「まあ、しゃあないわ」
 と苦笑していた。病気の話はそれだけで、「お母さん、いま留守やわ」となってすぐに通話は終了した。むかしから、自分の話はほとんどしない人だった。病気に対してあきらめるでもなく、達観するでもなく、どこかつかみどころのない空気をまといながら父は日々を過ごしていた。
 そのひと月後、年が明けてすぐに、父は入院した。
 医師から家族には、ガンが一気に全身に回ったので、もう病院から帰ることはない、という説明が告げられていた。発売までもたないかもしれないので、刷り上がったばかりの『バベル九朔』の見本を持って、病院に見舞いに行った。「おお」と声を上げて見本を手にした父だったが、それを読むことはなかった。頭蓋骨にガンが転移し、もう片目がほとんど見えなかったのだ。もちろん、私には最後までそんな説明はしてくれなかった。
 
 病室からは、冬の大阪城の天守閣をちょうど建物の間に眺めることができた。私は小学生の頃、父親としょっちゅう大阪城にサイクリングに出かけた。ともに大阪城の堀端に立つ小学校に通い、いわば父は『プリンセス・トヨトミ』の原形をすべて知る人だった。映画を撮影したときには、体調は万全ではなかったろうが、真夏の夜に大阪府庁の前でスーツを着てエキストラ参加していた。
「真田丸見てる?」
 と始まったばかりの大河ドラマの話題を振ったら、
「まだ見ぃひんな。大阪の話やないし。九度山あたりになったら見ようかな」
 とずいぶん先の話をした。
 父の余命はひと月ほどで、九度山あたりはどう見ても無理な話なのだった。しかし、父はどういうわけか、自分は治って家に帰ると最後まで思っていたふしがあり、父と同席して医師から病状の説明と、やわらかな表現ながら「死ぬまでの間、家族でどう過ごすかを考えてください」という課題を与えられたときも、
「何かご質問ございますか」
 と最後に訊ねられ、
「病院のごはんがどうもおいしくなくて。お寿司やうどんを食べに行ってもよろしいか」
 と父が返し、あまりに生死の問題を問題視しない姿勢に、先生が「え、ええ。食欲がおありなら、構いませんけれど」と困惑気味に答えるほどであった。
 母にも「今度の夏、シマカン(志摩観光ホテル)にあわびステーキ食べにいこう」と発言したらしく、そのあまりに境目が感じられない将来に対する姿勢に、
「お父さんは自分が死ぬことわかってないんやろか」
 という問いに、私も母も妹も全員が「ううん」と首を傾げるシーンがあった。現実から目をそむけていたのか、自分は大丈夫と無根拠に思いこんでいたのか定かではないが、死を前にしても父は悲壮感というものをまったく醸し出さず、常に超然としていた。その結果、家族に対し悲しい気持ちよりも、どこかずっこけた気持ちを抱かせるという、私には絶対に真似できないであろう、やわらかな、冷静に考えればかなり奇妙な雰囲気を父は病室につくりだしていた。思うに、あれも人徳のひとつだったのだろう。
 二月になり、一気に病状が悪化した。
 右側頭部のこめかみあたりの腫瘍が、病室を訪れるたびに大きくなっているのが痛々しかった。
 それから数日で、父はこの世を去った。
 東京から駆けつけた実家にて、父と対面した。遺体の側頭部から腫瘍はきれいに消えていた。好き放題に増殖し、宿主の命を食い散らかして、そして自らも滅んでいったガンを「アホが」と心のなかでさんざんに罵った。
 
 葬儀のひと月後、春休みに帰省した際、遺品の整理をしていた母が、
「お父さん、あのオレンジのセーター好きでね。似たような色のものをよく買ってた。ほら、このポロシャツとか」
 と教えてくれた。
 大学を卒業し、社会人になって最初のボーナスで、私は家族全員にプレゼントを買った。人間歳を取ると、似合わないかなという遠慮もあいまって、どうしても衣服に落ち着いた、無難な色を求めがちになる。結果、どんどん暗い、年寄りじみた雰囲気になってしまう。ならば、自分では絶対に選ばないような派手な色をプレゼントしようと考え、父には鮮やかなオレンジ色のセーターを買い求めた。
 その一枚がいたく気に入っていたようで、袖口のゴムがぼろぼろになるまで着てから、同じ色のものを探したが最後までいい一枚が見つからなかったのだという。
「何で言わんかったんか」
 それを聞いて、叫ぶような気持ちで思った。
 私は父に対する一個のわだかまりがあった。
 数年前、父に旅行のプレゼントを申し出たことがあった。
「どこでもいいから二人で海外に行ってみたら」
 子らも皆が巣立ったことだし、夫婦二人でゆっくりと旅行したらどうかと提案したが、「特に行きたいところないみたい」と母経由で断られた。身体のことがあるから海外に滞在するのは心配なのかも、と言う母の言葉を聞いて、ならば「日本国内のどこかで」と提案し直したが、それも断られた。
 こちらの勝手な申し出ではあるが、親に旅行のプレゼントを提案し、断られる子どももそうはいないだろうなと思うと、とてもみじめな感じがした。
「自分の言い方が、押しつけがましかったのだろうか。己の成功をこれみよがしに示すようで反感を買ったのだろうか。そもそも息子に何かされるのが、気に入らないのだろうか」
 とさまざま勘繰り、さびしい疑心が芽生えたままになっていた。
 しかし、母親の話を聞いて、そこらへんにわだかまっていたものが、すっと流れた気がした。
 自分のことはほとんど話さない人だった。直接、父の言葉から何かを学んだ記憶はほとんどない。しかし、作家としての私を作ったのも間違いなく父だった。通勤の際の暇つぶしのために、父は三十歳を超えてから本を読み始め、特に好きだった司馬遼太郎や山岡荘八や吉川英治を読んだ端から本棚に並べていたため、それを中学生になった私が勝手に読み漁り、結果、作家になるための資産をたっぷりと蓄えることができた。
 一度だけ、父があのセーターを着ている姿を見たことがある。妹のピアノの発表会で遅れて会場に到着したら、父がオレンジの格好で会場を歩いていた。ちょっと派手すぎたやろか、とそのときは思った。でも、気に入っていたのだ。
「何で言わんかったんか」
 叫ぶような気持ちで、今も思う。
 その話を聞いたら、私はどれだけうれしい気持ちで新しい一枚を買い求めただろうか。
 二月はオレンジ。
 これからもきっと毎年思い返す色。
 どこにでも転がっている、ままならぬ、ありふれた父と子の話。


月刊コラム『カタコト語る、万華鏡』 毎月25日公開
icon_makime<著者プロフィール>
万城目 学 (まきめ まなぶ)

1976年生まれ、大阪府出身。小説家。
おもな作品に『鴨川ホルモー』『鹿男あをによし』『プリンセス・トヨトミ』などがある。
最新刊は『バベル九朔』。