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はしに棲むもの

 私たちは遠い。歩けばほんの僅かに隔たるばかりのこの橋の袂からも、長く、気怠く、見捨てられてきた。
 取り巻く大気はやるせなくも、藪から炙り出された蛇のように蜷局(とぐろ)を巻く。
 ボクらの住まいは代々、この橋脚に引っかけられてきた・・・・

 棚引く雲の真下、中央に望む比叡山、水面は琵琶湖の南端、そこを這うようにのびる近江大橋。流れを左手に下ると、まもなく瀬田川に変わる。上流にうみ、山間を抜けて京都府に入ると、宇治川と名称を改め、やがて桂、鴨、木津の3河川と合流して淀川となり、大阪湾に流れ込む。じつに広々とした、ここはその源流にもあたる。
 いまカメラは東岸の瀬田(古くは勢多)に立つ。向かいの西岸は、源義仲が最期をとげた粟津をへて、大津の旧市街地へ通じる。川沿いには橋が連なり、JRの在来線、渋滞病いの国道1号、そしていにしえからの名橋、瀬田の唐橋に受け継がれる。672年の壬申の乱、764年の恵美押勝の乱、源平の相克、承久の乱でも雌雄を決する古戦場となった。その先の右岸には石山寺が旧跡を構える。かつて紫式部が、湖面に映る月影に物語の着想を得たとの「縁起」も伝わる。
 10年前、佳景に着想を得て、私も中篇を物したことがある。題して『宿命の階(きざはし)』、主人公は陸(おか)でも岸辺でも川面でもなく、橋脚に小屋掛けをして暮らす異端の一族だった。かれらが1号線の狭苦しい旧棲から深夜、仲間たちの船を使って、上流の新橋にできた、広々とした空き家へ移り住むという空想譚である。そのころ私は瀬田の介護施設に暮らす母を訪ねて、西岸の旧宅からしょっちゅう自転車でこの近江大橋を往復した。
 ゆるやかな起伏はサイクリング道の愉悦をもたらすが、とある1月の未明に、一人で取材に出かけたことがある。橋の袂に自転車を停め、あとは歩いて中程を目ざした。すぐに上り道である。いまだ暗く、手がかじかむほどに、寒風湖面を渡る。私はこの時はじめてICレコーダーをノート代わりに用いた。空を仰ぎ、波風のあらぬ囁きにも耳を澄ませて、時折通り抜ける車には見向きもしない。念の湧出には思いをかぶせ、次々と断章を吹き込んだ。後日、それらの中から必要なものを書きとめ、作品の構想にも資する。その後も同様の音声取材を市街地の夜に試みたが、普及する携帯電話のおかげでいくらでもカムフラージュされるし、通行人にも顕わな怪訝を招かない。「あ、ここは☓☓のあたりです・・もう人通りも疎らです・・夜の街は、どこでも腰を屈めていますね」などなど。全ては真冬の、黎明間近の、この橋の上から始まった。さて・・

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 瀬田から西岸へ橋を渡り、東海道の旧道を湖岸沿いに2、3キロも進むと、県庁にも程近く古くからの街並みにのまれる。遊歩はその辺りで、瀬田の流れとは比べるべくもない細流に行き当たる。名づけて吾妻川、界隈は境川町と呼ばれ、程近い施設の前には立札がみえる。

「この町は東西に走る東海道沿いに開け、東端を吾妻川が流れています。かつて、京都から江戸へ向かう旅人が、逢坂山を通り、この川を越えた先が東国に通じているので吾妻川と呼ばれました。境川町は、その境にあることから名付けられたといわれています。」

 だから「境」とは、東国との境界、と読むこともできる。以前の立札には、「この川から先が東国とされたから、吾妻川とよばれるようになった」と書かれていた。それはいつの時代のことだろうか。
 現在の感覚で「関東」といえば、その境目はやはり箱根の関だろう。しかしこの吾妻川の境界は、その400キロ(100里)も手前に設定されている。当時の首都から山ひとつ越えただけの宿場町から先にはもう東国が待ち構えていた。その京都にしても奈良期以前には山城ではなく山背国と呼ばれ、隣接する近江ともども多くの渡来人が暮らした。今風に言えば、大陸からの「入植者」である。陸続として入植の進む往時、京都も滋賀も「開拓」のフロンティアであり、その先には東国と呼ばれる別世界が待ち受けていた。しかも数キロ先の瀬田川ではなく、こんなささやかな流水を境にして・・・・想いはまた瀬田へと経めぐり、その手前で亡くなった武将の妻の落ち行く先へと合流をとげる。

「ともゑそのなかへかけ入、をん田の八郎におしならべ、むずとと(ツ)てひきおとし、わがの(ツ)たる鞍のまへわにをしつけて、ち(ツ)ともはたらかさず、頸ねぢき(ツ)てすてて(ン)げり。其後物具ぬぎすて、東國の方へ落ぞゆく。」(『平家物語』巻第九 木曾最期 より)

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 思うに、はし(橋)というものはいつだって2つのはし(端)のあいだに架け渡される。私の描いた「橋に棲む者」は、西国(あるいは当時の首都圏)と東国(みちのくへと通じる)のいずれにも住まうことの許されない、第三の、だからとこしえの、異端であったのかもしれない。
 はしに棲むもの・・皆さんは今どちらにお住まいでしょうか?


 

著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

1954年京都市に生まれる。文芸作家。2003年に最初の長篇『空の瞳』(現代企画室)でデビュー。2008年には、対話的文芸論『子どもと話す 文学ってなに?』(現代企画室)を上梓。
2013年の作品集『新たなる死』(河出書房新社)の冒頭を飾る「コワッパ」の執筆にあたっては、舞台となるル・プチメック今出川店からのご協力をいただき、店舗への取材を重ねている。
21世紀の初めから現在まで、第二の長篇『ユウラシヤ』に取り組んでいる。2015年9月、そのプロローグにあたる『迷宮の飛翔』(河出書房新社)を発表。今年(2017)は第1部にあたる新作『スピノザの秋』を刊行する。