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老子の説法

 鼠が走る。猫が追いかける。前には行き止まりの高い壁がある。追い詰められ、突然居直った鼠が、それまで密かに隠し持った、伝家の宝刀もさながら、鋭い牙をむく。窮鼠、猫を食む・・・・数え切れない人間たちがその顛末を眺めている。だけど、自分たちの問題だと切実に受け止める者はほとんどいない。やがて場内も明るくなり、舞台の幕が閉じると、あろうことかその幕も消えてなくなる。客でもなかった見物人の間に言い知れぬ戦慄が駆け抜けるのだが、すべてはもう、手遅れだった・・・・

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2015年3月7日 上海にて 黄浦江春望

 ここに言う「老子」とは、古代中国の思想、道教の祖ではなく、現代日本の国会で議員も務める、さる年配の政治家に筆者が冠した仮名である。もうかれこれふた月もさかのぼる、あれは平日の夜のこと、この老子が突然テレビの中継に姿を現わし、詰めかけた報道陣を前に一席講じた。取り上げる論題は「こんにゃく」で、1から1.5センチの厚みがあり、それでパソコンが何台も買えるという、稀代の逸品らしい。過日老子は、とある人物2名にそいつを差し出されたが、こんにゃくは好みに合わぬものか、「無礼者」と一喝して投げ返したという。これがレンガであれば相手への傷害も懸念されるところだが、こんにゃくである限りはせいぜいのところ心に痛手を喰らわすくらいだろう。直後に老子は反省した。投げ返したことについてではなく、そもそもが為にする対価として「こんにゃく」を持ち出されたことについて、老子はこう断じた。「これはおれにとくがないからだ」と。
 私は思わず耳をそばだてた・・・・「とく」? 発音の体系に若干の貧相をかかえる日本語においては、そこかしこに同音異義が鏤められる。この場合、とくは、徳、得・・・・すぐにこの2文字が浮かんだ。ともに漢字である。老子その人はあの時、より正確にはこう述べていた。「それはおれに貫録と、とくがないからだ」と。この文脈に照らせば、「とく」は「徳」に傾く。それにしても、彼の言う「徳」とは何ぞや。

 じつは徳と得、たまたま日本語の音域で一致をみる、というだけではないらしい。当の中国でも字源に関わり古くから「徳は得なり」の一句が伝わる。古代ギリシアのプラトンもある対話篇の中で、登場人物の一人にして著名なソフィストでもあったプロタゴラスにこんな台詞を与えている。「けだしこれは、お互いの正義や徳は結局われわれ自身の得になるからにほかならないのであって」と。
 だが、プラトン自身はソクラテスを導きに、ソフィストとは異なる立場と観点からこの徳の問題を考究している。たとえば初期の対話篇である『メノン』の副題たるや、そのものずばりの「徳について」。当時のギリシアでは、名だたるソフィストたちが「徳」の教師を自認して結構な報酬もいただいていた。自らの教える「徳」について、その第一人者たるプロタゴラスはいう。それは国家社会(ポリス)の一員としての人間が持つべき卓越性であると。しかし、そこにはまさに「徳が得にも通じる」という意味での、処世術、出世の作法といったニュアンスが高額の報酬とともに強くこびりつき、問題の根源へ立ち入ることに待ったをかけていた。そこへ向う見ずな「土足」を踏み入れようとするのが、ソクラテスの問いである。「徳とは人に教えられるものなのか?」さらに深化させ、「そもそも徳とは何か?」
 もっとも、『メノン』での探究はまだまだ道半ばである。「徳」が知であること(ソフィストたちが報酬を得てパッケージするものとは、全く意味も次元も異なるのだが)、そして知である限りは人に教えられる、という遠景は醸しながらも、それ以上には進まない。新たな知としての「徳」はいまだ示されず、「正しい思わく(ドクサ)」とされ、人に備わるのは「神の恵み」ということに落ち着いてしまう。かなり奇妙な結末だが、ここから私は、「徳」が安直に人から人へと教え伝えられるものではなく、何よりも一人ひとりの厳しい思索と錬成ののちにようやく獲得されるものであるという、そんなニュアンスだけは汲み取っている。べつに書斎に閉じこもっての瞑想ということではないのだが。

c_nina16-2 老子の語った、彼がふと洩らした、「徳」の一語、それを彼自身はどのように受け止めているのか、どうしても直々に尋ねてみたくなった私は、別の夜、報道陣に紛れ込んで彼の専用車に近づいた。すると、先日画面を独占したあの老子が建物から出て、車に乗り込もうとしている。急げ、やるなら今しかない!・・意を決して私は、ライバルたちを掻き分ける。ところが無慈悲にも、聞き覚えのある老子御自らの声がした。
「触るな・・・・蹴飛ばすぞ」。そして姿は車内に消えた。それでも私は、怯まず問いかける。わが親愛なる老子にかけて、かかる所作には、果たして「徳」のありやなしや、と。また老子自身にとっても、かかる言動には、果たして「得」のありやなしや、と。
 そんな私に向かって、見知らぬ男が嘲笑交じりにこう語りかけた。「ねえ、あんた。徳が人に教えられるかどうかなんて、七面倒臭い。そもそも前提が間違ってるんだ。いいかい、「徳」じゃなくて、「道徳」にしたら、もうすぐに伝わるし、すぐに埋め込まれるんだよ」
 私の周りには、もはや猫を待つ鼠と、鼠を捜す猫しか見当たらなかった。それが泣く子も眠る、永田町の夜だった。

「自分自身を維持しようとする努力は、徳の最初にして、しかも唯一の基礎である。」
(スピノザ『エチカ』第4部定理22の系より)


 

著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

1954年京都市に生まれる。文芸作家。2003年に最初の長篇『空の瞳』(現代企画室)でデビュー。2008年には、対話的文芸論『子どもと話す 文学ってなに?』(現代企画室)を上梓。
2013年の作品集『新たなる死』(河出書房新社)の冒頭を飾る「コワッパ」の執筆にあたっては、舞台となるル・プチメック今出川店からのご協力をいただき、店舗への取材を重ねている。
21世紀の初めから現在まで、第二の長篇『ユウラシヤ』に取り組んでいる。2015年9月、そのプロローグにあたる『迷宮の飛翔』(河出書房新社)を発表。今年(2017)は第1部にあたる新作『スピノザの秋』を刊行する。