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十七杯目 雨の坂道

雨が降っているほうが、いいときがある。本を読むとき。絵を眺めるとき。一人になりたいとき。夜中にショパンを聴くとき。そして、女優は雨が似合うほうが素敵だなと思う。

あめあめ ふれふれ かあさんが、という歌がある。北原白秋作詞の「あめふり」だ。二番目以降の歌詞に、柳の木の下でずぶ濡れになっている子供に自分の傘を差し出す場面がある。

きみきみ このかさ さしたまえ、と男の子は傘を貸し、自分は母親の傘に入るのだが、仕事を持つ母が傘をさして迎えに来ることのなかった僕は、この歌を聴くたび、なんだかちょっぴり寂しい気持ちになったものだ。

もうすぐ、18歳のころの夢が叶おうとしている。それは大きな絵を飾ることだ。50回以上読み返しているけど、あまり人に勧めたことのない小説に、それは登場する。

神戸の北野坂からさらに一段山手に昇ったところに、そのフランス料理店はある。急逝した夫の跡を継いで経営者となった彼女は、満たされぬ日々のなか、若い絵描きに恋をし、毎月一点の絵を描いてもらう約束をする。

その主人公に自分を照らし合わせてみたりはしないけど、「うろこの家」を下に見る、古いマホガニー製の家具のある部屋や、若い絵描きが描いた『雨の坂道』という題の力強くてみずみずしい絵の描写は、少なからず僕の店に影響を与えた。

「最近のバラは香りがしないんだってね。佐伯さんのイメージではないけど、いい香りがしたのでこれにしました」。絵の打ち合わせを兼ねてバーに遊びに来たデザイナーは、そう言ってピンクの花束をプレゼントしてくれた。小説に出てくる年下の画家は、もっと不器用だ。

雨の降りはじめは、耳よりも鼻のほうが敏感になる気がする。だから雨は、ときどき人を詩人にするのかもしれない。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、雨のにおいを“虹のにおい”と思っていたそうだ。2300年以上前の、ロマンティックで滑稽なお話。

カウンターの一番奥が、あの人の特等席。降りだした雨にも気づかず、氷が溶けて頃合いになったウイスキーグラスを片手に、じっと絵を眺めている。

その間、僕は彼に話しかけない。口にするとその場からほどけてしまいそうな透明で青い言葉を飲み込んで、理屈じゃないところで絵を楽しんでいる…。そんな常連さんが一人でもいてくれたら、僕は嬉しいなと思う。

一日の営業が終わり、白みはじめた灰色の空を見上げる。今日は雨かな? 晴れるかな? もうすぐ、本格的な梅雨がやってくる。


著者プロフィール

月刊連載『外苑前マスターのひとりごと。』毎月15日公開
icon_saeki佐伯 貴史(さえき たかふみ)

BARトースト』のマスター
コーヒー会社で営業を経験後、雑誌の編集に興味を持ち『R25』『ケトル』等の媒体に携わる。歌と本と旅と人が好き。餃子は酢とコショウで食べるのが好き。