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第十八回 映画『男はつらいよ 私の寅さん』(1973年)

『男はつらいよ』って年を取って見れば見るほど、きゅんきゅんするポイントが増えてくるものだなあと思う。
この『男はつらいよ 私の寅さん』では、とらや一家が家族旅行に出かけようとする前日に寅さんが帰ってくる。寅さん抜きで旅行に出かけようとしていたと思われると、寅さんが傷ついて怒りだすにちがいない。でも言わない訳にはいかない。むしろ隠しているほうが「水くさいじゃねーか」と気分を害する可能性もある。そして本音を言うと、まずいところに帰ってきちゃったなあ。そんな気分がないまぜになった微妙な表情を、とらやの茶の間で、いつもの芸達者の面々が実に上手に演じる。
『男はつらいよ』を見て思うのは、日本人て本当に心優しい人たちなんだなということだ。寅さんはじめ登場人物は、いつも傷ついて、泣いたり怒ったりしているが、自分の身に辛い出来事があったからというより、相手のことをおもんぱかって傷つくのである。
存在自体がネタバレのようなワンパターン映画なので、いまさら結末を隠す必要もないと思うが、いつものように寅さんは失恋して旅に出る。「僕はりつ子さん(マドンナ)のことを惚れた腫れただなんてちっとも思っていませんよ。いつまでも友達でいましょう」と言って別れ、でも自分が相手のまわりにいたら迷惑だろうと「忖度」して、黙って去るのだ。
それを見送るさくらは後ろ姿に向かって「おにいちゃーん」と涙で声を詰まらせながら叫ぶ、その一言の中には、「お金は大丈夫かな?」とか「寒いのに毎日外で物売りをするの大変だろうな」とか「失恋してつらいだろうな」とか、自分のこと
じゃなく相手への無数の心配が折り重なっている。

岸恵子演じるりつ子は、フランスパンの好きな女流画家という設定。医者の娘で舶来趣味をもつお嬢様という時点で、身分違いの寅さんの悲恋は確定している。それを表現する小道具として「フランスパン」はぴったりだ。岸恵子自身、フランス人映画監督イヴ・シャンピと結婚、パリと東京を行ったり来たりしていたから、彼女のキャラクターが多分に反映された役である。
「絵を描くことに熱中しているとついつい夜中になっちゃって、フランスパンに砂糖をまぶしてインスタントコーヒーで流し込むなんてしょっちゅうなんですよ」

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(関口フランスパンで買ったバゲットに砂糖をかけたもの)

1973年当時、日常でフランスパンを食べる人ってどれぐらいいたんだろうか? 私の母はよくドンクでフランスパンを買ってきてくれて、そのために私はパン好きになった。フランスにあこがれをもっていた母もそういえば岸恵子のファンだった。
寅さんと岸恵子がいっしょにフランスパンを買うシーンがある。いつもの河原のすぐ近くに、タバコ屋兼パン屋兼駄菓子屋みたいなレトロな店があって、ガラスケースの上に「関口フランスパン」という看板が立っていて、バゲットが並べられている。岸恵子が「バゲットとロールパン」を注文したあと、「私、財布忘れてきちゃった」と言って、寅次郎が払ってあげる。
関口フランスパンといえば、1888年、日本で最初にフランスパンを売り出した店だ。こんな下町みたいなところに店舗があるのか疑問である。どっちかというと、当時よくあったヤマザキの店に、ヤマザキパンの代わりにフランスパンが置いてあるような感じなのだ。
関口フランスパンに電話してうかがったところ、「日本橋三越に出店をしていたので、おそらくそれをご覧になって協賛のお話をくれたのでしょう」と当時を知る先代マダムが答えてくれた。つまり、あのセットは柴又でフランスパンを買える設定にするための苦肉の策で、関口フランスパンとヤマザキの店を折衷させたような感じである。
店を出た2人は、柴又の町を、フランスパンをもって並んで歩き出す。包装もレトロでかわいい。なんたってあの昭和なパン売り場がすごい。でも、そんな光景は当時だって、いまだって、ありそうだけど決してない。映画の中だけの幻だ。本当にあったらいいな、とフランスパンの好きな私は思う。フランスパンの文化が日本に本当に根付いたとしたら、こんなふうになったんじゃないかと思うからだ。
関口フランスパンに行ってバゲットを買った。映画に登場する40年以上前のそれと同じように、ちょっと太めでバタールみたいバゲットだった。

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(関口フランスパンのバゲット)

 


著者プロフィール
月刊連載『月刊 池田浩明 やっぱりパンでした』 毎月3日公開

icon_ikeda池田浩明(いけだひろあき)

パンラボ主宰、ブレッドギーク(パンおたく)。
パンを食べまくり、パンを書きまくる人。
パンラボblog(panlabo.jugem.jp/)、twitter( @ikedahiloaki )、朝日新聞デジタル「このパンがすごい!」でパン情報発信。
もっとおいしく安全な小麦を日本に広げるプロジェクト「新麦コレクション」代表。