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十九杯目 僕が届ける小さな声

その年は、3月後半にはいっても肌寒い日が続いていた。まるで、僕が新しい土地に慣れるのを待ってくれているかのように、ゆっくり、ゆっくり、春がやってきた。

自転車で高校に通っていた僕にとって、電車通学というのはとても大人びた行為に思えた。

新しい紺色の定期入れを取り出すと、自分以外の教室に入るみたいにぎこちなく、慣れない改札をそっとくぐってホームに上がる。

8時45分発の各駅停車。前から二両目の一番うしろ。いつもの電車の、いつもの車両であることを確認したら、髪と服を整え、無理に大人びた表情をつくる。

朝日を背に受けたあの子は、健康的な長い髪をきらきらと輝かせて、僕の斜めに座っている。わざと咳払いをしたり、音をたてて荷物を置いたりしてみても、僕の方を見ることはない。横を向いたまま、友達とのおしゃべりに夢中だ。

最初は、同じ車両でほんの少し見かけるだけで3日は幸せだった。でも、人は満たされるとだんだん欲張りになっていく生き物なわけで。

明日も明後日も一緒がいいなと思いはじめ、今は、彼女と一言でいいから会話したいと思うようになっている。

遠くの桜を眺めるふりをしながら、視界のはしっこで彼女を盗み見ていると、あっという間に降りる駅が近づく。最後にもう一度だけと未練がましく彼女を見る僕は、きっと誰よりカッコ悪い。

人生二度目の一目惚れは、僕史上一番ぎこちない恋だった。なんの武器も持たない18歳の青年の、たぶんきっとホントの恋。

どんなに強く想っても、これから先、僕の声が彼女に届くことはない。だから僕は、この気持ちを伝えるために、手話を習うことを決めたんだ。


著者プロフィール

月刊連載『外苑前マスターのひとりごと。』毎月15日公開
icon_saeki佐伯 貴史(さえき たかふみ)

BARトースト』のマスター
コーヒー会社で営業を経験後、雑誌の編集に興味を持ち『R25』『ケトル』等の媒体に携わる。歌と本と旅と人が好き。餃子は酢とコショウで食べるのが好き。