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有楽町の弥勒(みろく)

 今月もタルホに親しむ。『一千一秒物語』から17年後の1940年11月、彼は『弥勒』を発表する。日中戦争に入って3年が経ち、太平洋戦争は1年後に迫るという、戦時である。
 初めて読んだ時、私はそういう執筆年代にはずいぶんと無頓着だった。ただ、胸襟をくすぐるような一言には今度もすぐに再会できた。
 「六月の夜の都会の空」。
 第一部「真鍮の砲弾」の中で、主人公江美留の少年期の回想に登場する。学校の教室で、友達が投げつけた紙片に書かれた、それは詩の題名だった。星空にはなかなか恵まれないであろう梅雨の夜半。垂れ込める雲海が下界の都市をさえぎると、却って果てしのない宇宙への憧憬が増してくる。そこに人生をかけてもいいような、奥行きの広さをやさしげに差し向けながら。
 そこから「墓畔の館」と題された第二部に移ると、様相はごろりと変わる。すでに大人の江美留は東京に暮らす。それも極貧で、売れるものは何でも質入れし、「くず屋」にも引き取らせ、残された部屋のカーテンにくるまり寒中を忍ぶ。食べるものにも事欠きダイエットを余儀なくされる。作家自身の当時の実情にも重なるのだろうが、あの荒ぶる『一千一秒』からことごとく血生臭さが消し去られたように、ここでも叙述はいつの間にか生活の悲惨をすり抜けてしまう。
 それから5年後に発表された『有楽町の思想』(1945年6月)は日記風の断章である。タルホと思しき語り手もどうにか職を得ている。というか徴用工となり、東京から鶴見の自動車工場に通う。その沿線や職場での諸事が、1944年10月8日から翌年3月15日までの日付とともに綴られる、ただし毎日ではない。もっと息を潜めて間が抜ける。「有楽町」が出てくるのは3度きりで、先ずは作品の口火を切る。
「有楽町あたりのトワイライトの中には、或る未来的な夢がふくまれている。」
 この探求、これをめぐる思案の中に、切れ切れの日記は費やされたと言ってもよい。内面の没落のようなものに耳を傾けながら、星辰に憧れる執念も手放さない。折しも空襲に備え、首都には灯火管制が敷かれる。
「今夜は飯田橋に着いたとたん明りが消されて真の闇となり、さぐり足に外へ出て、銀河の壮麗さに心を打たれた。」(1944.12.12)
 しかし同じ日付の記述はまもなく、如何ともしがたい現実に引き戻される。
「住いに近づくと空は硝煙臭いけむりにおおわれて星々は見えなくなり、大塚あたりが紅くなっている。」
 町が燃えていく。十日ののち、なおも彼はもう一つの目を研ぎ澄ます。
「丸の内にはいると、半面に物倦いような日射をあびたビルディングが夢の国の建物のようにつらなっている。」(1944.12.22)
 年が明けて、再び有楽町。そこでも戦時と詩想は並走する。頭には異次元の冠をかぶせて。
「七旬節主日。帰途に有楽町附近の被害を見た。神田にくるとハロバロしい月の出。」
(1945.1.28 冒頭の「七旬節」とは、キリスト教で復活祭前の聖霊降誕祭を表す)
 そして最後となる、3回目の有楽町は、あの東京大空襲の翌日だった。
「有楽町界隈で近頃真夜中すぎになると大勢の呻き声がすると云う。あって差支えないことである。」(1945.3.11)
 そして余りにも謎めいたもう一つの文がこの日を締めくくる。
「この種の放射線の痕跡は霧箱のような装置で撮影されるかも知れないと、私は思っている。」放射線?・・・・放物線でもなく?・・・・
 星月夜のコスモローグはどこまでも冷徹を貫き、その字面が何やら思いを遂げるべき冷淡さにもみえてしまう。56億7千万年ののち現世に下るという弥勒は、そこで果たして何を救うのか。その前に、救われるものがなおも残っているのか。今日も空を見上げて考えてみよう、かなと思う。
 同じころ、永井荷風は『断腸亭日乗』を綴り、首都における空襲の惨禍は、堀田善衛の『方丈記私記』にも詳細に描かれた。

c_nina21「何故なら、彼は何であっても、「物事のお終い」が大好きであったからだ。即ちそこにある、何故か遠方へ出発する前夜のような、それとも取片付けを終えて何かを待つばかりになったとでも云うような、静かな一刻に憧れていたからだ。」(稲垣足穂『弥勒 第一部 真鍮の砲弾』より)

(写真は2016年12月、京都の東福寺にて。紅葉の名所は見物客が鈴生りに並ぶ。進行の円滑のため写真の撮影も禁止されるときく。それが葉っぱが落ちると、かくも啓かれた。)



 

著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

1954年京都市に生まれる。文芸作家。2003年に最初の長篇『空の瞳』(現代企画室)でデビュー。2008年には、対話的文芸論『子どもと話す 文学ってなに?』(現代企画室)を上梓。
2013年の作品集『新たなる死』(河出書房新社)の冒頭を飾る「コワッパ」の執筆にあたっては、舞台となるル・プチメック今出川店からのご協力をいただき、店舗への取材を重ねている。
21世紀の初めから現在まで、第二の長篇『ユウラシヤ』に取り組んでいる。2015年9月、そのプロローグにあたる『迷宮の飛翔』(河出書房新社)を発表。今年(2017)は第1部にあたる新作『スピノザの秋』を刊行する。