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二十三杯目 僕の店の、よいお年を

しびれるような刺激や快感を求める毎日に、少し疲れてきたようだ。村上春樹さんが『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』や『1Q84』で、「歳を取ると少しだけでいいんです」と繰り返しているが、なるほどなと思うようになった。

大阪、広島、東京と、環境が変わるたびに何かを求め続けてきたけれど、年齢にあったリズムがあるんだと気がついた。これからは、そのリズムにあわせて、歌って踊って歩こうと思う。

今年ももうすぐ終わろうとしている。寒さのせいだけではない、みんなどこか足早に、コートの襟元をおさえて家路に急ぐ姿は好きだ。去年のいまごろは、自分の店がちゃんとオープンするかとても不安で、イルミネーションを見る余裕なんてなかったけれど、今年はまあ、小さな悩みはありつつも、表参道を通るたびにいいもんだなと感じる。

師走には毎年、ベートーヴェンの「第九」を聴くことにしている。すごく好きな曲ではないけど、風物詩っていいもんだ。僕の贔屓の交響楽団は客の年齢層がかなり高いが、第九のときだけは学生や若いカップルが増える。それを見ると「ああ、年末だな」と思う。

昔、イギリスのサザビーズで「人類最高の芸術作品」と評されたこの曲を書きあげたとき、ベートーヴェンの耳はすでにほとんど聞こえなくなっていたのは有名な話。何十年も前から構想を持ち、亡くなる三年前に完成させたそうだ。波乱万丈の天才音楽家も、僕みたいな凡人のように、走り疲れたと考えたことはあるのかな。

僕の通っていた高校は、卒業式で「蛍の光」ではなく「第九」を歌う。昔取った小さな杵柄で、いまでもドイツ語の歌詞を覚えている。十代の思い出に浸れる大事な恒例行事なので、毎年、いま一番逢いたい人と聴きに行く。日本で最初に「第九」が演奏されたのは1918年。100年目となる来年は、誰と聴くのだろう。

風物詩といえば、小さい頃、師走の早い時期に「よいお年を」と声をかけあう光景が好きではなかった。「あなたとは、しばらく会えません」と宣言してるみたいで、ちょっとさみしい気持ちになった。

店をはじめてから、そういったひと言を掛け合うことはとても大切だと再認識した。「今月はもう東京に来らへんと思うんで、少し早いけど、ご挨拶しておきますね」。BARトースト最初の「よいお年を」は、このコラムを通じて知り合った、とても素敵な方だった。


著者プロフィール

月刊連載『外苑前マスターのひとりごと。』毎月15日公開
icon_saeki佐伯 貴史(さえき たかふみ)

BARトースト』のマスター
コーヒー会社で営業を経験後、雑誌の編集に興味を持ち『R25』『ケトル』等の媒体に携わる。歌と本と旅と人が好き。餃子は酢とコショウで食べるのが好き。