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やらとがとらやとわかるまで

 物は高いところから低いところへ落下する。川も上から下へ流れる。そこに「中」を加えて人間社会の秩序に当てはめるや、たちまちややこしくなる。「上から目線」、「下々の声」、「中流意識」、などなど。見知らぬ土地では、東西南北にもしばしば梃子摺らされるが、今や車にカーナビ、歩行者にもスマホのマップが寄り添って、ずいぶんと便利になったかと思われる反面、それらへの依存度が高まると、突然切り離された時の対応力はかなり低下してはいないかと心配せざるを得ない。
 もうひとつ、気ままに惑わされるものに右と左がある。こちらに比べると前と後ろはまだくみしやすい。それとても「奥行き」へその捉え方を転じると、画筆の腕試しがつづく。小説を書いていてもさまざまに奥行きは意識するのだが、加えていま君は(つまり私は)誰からの、あるいはどこからの視線で、「右」と、あるいは「左」と言ってるのか、とは、しょっちゅう自問させられる。政治や社会に転じるとここでも、アイツは左だ、あの人ってどちらかというと右ね、なんて立場と思想に評価を加えることも日常茶飯。ただ私自身は子どものころ、もっと「原始的な」、それでいて明らかに「人為的な」レベルで、長く戸惑わされた思い出がある。

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 暖簾の写真、みなさんはどう読まれるか? 「やらと」・・・ 江戸時代の初期には開業していたという老舗で、いまは東京の赤坂に本店がある。画面の右手を南北に駆け抜ける烏丸(からすま)通りを挟んで、向いは京都御所の西側に面している。幼少時も同様の暖簾がかかっていた。そののち店はリフォームされ、ガラス越しに内部の見通しもよくなり、和菓子店であることはすぐにわかる。
 もう一枚、いちばん最後に載せる写真は、ここから一筋西の角にあるお味噌の製造元で、小売用の店舗は近年に開かれたが、佇まいは古い町家の格子をよみがえらせる。外から見ただけではよくわからない。呉服屋? 織元? 以前は和菓子店のほうもこんな設いで、中はよくわからず、ために奥床しく、ただ入口には「やらと」とあった。何の店か、何をしている所かと、長く謎めく小学生の私であった。その一方で、「とらや(虎屋)」という有名なお菓子の店が近くにあるという情報は入って来た。正確には覚えていないが、謎の「やらと」と老舗の「虎屋」はかなりの時間、私の中で別々の部屋に入れられて相互の交流もなかった。そしてあるとき家族に疑問をぶつけたところ、大笑いとともに真相が明らかとなる。でも、こちらは笑っていられない。「そしたら、左から右と、普通に書きいな」(関西方言で「書けよ」の意)と不満が残ったが、今では風情とともに懐旧も誘う。そののち言葉の世界には、右から左へ綴る言語もあることを知り、年少児の狭量に頬が赤らむ。でも、下から上に書くのは、「重力の法則」から見てもありえない。と言っても、これが「偏見」ではないという保証も持ち合わせない。
 コラムもこれで通算24回、ちょうど2年が過ぎた。最後におまじないを2つ捧げて、正月の結びといたします。

いまうんぱのくっめちぷる

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著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。