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アナバシス ΑΝΑΒΑΣΙΣ の伝えるもの

 はるかな山のよく見えることがある。不意に先触れがなく、望みもいまだ遠く、霧また深く雨さえ消えやらぬのに、いやそれどころか、竜巻の気配が人びとに教え諭す暇も与えず、なぜかそっと忍び寄るのに、身じろぎもしない目と目に山と山がもう間近に迫りきたる。立ち止まり自らに問いかける。置き忘れたはずの背中はいまどこか。夢よ、すぐ傍らにあって、秘めやかに音も立てず、この私に涙しておくれと・・・・(私家版『カチューシャの恋』より)

 昨秋のこと、『アナバシス』(クセノポン著 松平千秋訳 岩波文庫)を読む。古代ギリシア、紀元前400年ころの戦記だが、異国を征服したのでもなければ、攻め込まれた側の鉄壁の防戦でもない。副題に「敵中横断6000キロ」とある。ペルシアの内紛に巻き込まれ、王の弟キュロスに加勢してバビロンに攻め込んだギリシア軍、その数1万数千。ところが肝心のキュロスはあっけなく討ち取られ、気づいてみたら周りは敵だらけだ。現在のバグダード近郊から黒海まで山を越え、その沿岸を海路も含め逃げ帰る撤退戦の有様を指揮官のひとりクセノポン自身が記録する。それから2400年が経ったいま、この退路の周辺はまた戦火に見舞われる。読み進むと、現代にもそのまま通じるような光景に何度も出くわした。そもそも長旅を通じて、兵士の食べるものだってどうするのだ。現地で「徴発」などと言うが、それをやられる側の住民にとっては、強盗以外のなにものでもない。そればかりか、たとえば、

翌る日セウテスは、一戸も残さず部落を完全に焼き払って引き上げた。他の部落の者たちにも従わねばどのような目に遭うかを示して、恐怖心を起こさせるためであった。捕獲品は、兵士たちの給料を賄うために、ヘラクレイデスをペリントスへ派遣して処分させた。セウテスとギリシア軍は、テュノイ人の居住地である平野で野営したが、住民は部落を捨てて山中に避難した。(329頁)

 別のところでは、司令官にして著者のクセノポン自らもこう述べている。

われわれはこの土地の何処なりと好きな所へ行きもし、荒らしたければ荒らし、焼きたければ焼くという風にしていた。(以下略)(350頁)

 「未開」なる時代の立ち振る舞い、などと突き放し、遠ざけることなどできない。たとえば半世紀前のベトナム、リアルタイムではミャンマーの西部、ロヒンギャの人びとに対して政府の軍隊が村を焼き払う、その光景をBBCで何度も見せられる。川向こうの人里に立ち上る煙、意図して付けられた火、命からがらバングラデシュに逃げ延びた難民たち・・・・人間、おーい、人間、性懲りもなく同じことをくりかえす。少しは進歩しないかと、天から胸底にひびく声がして、そのまま澱になってどこにも沈まない。

この時の光景は、まことに凄惨を極めたものであった。女たちはわが子を投げ落し、ついで自らも身を投じ、男たちも同様であった。その折ステュンパロス出身の隊長アイネイアスは、美しい衣裳をつけた一人の男が身を投げようとするのを見て、止めようとして男の体に手をかけたが、男は彼を引き摺って行き、二人とも岸壁から頽落して死んだ。この砦では捕虜の数は極めて少なかったが、鹵獲(ろかく)した牛と驢馬と羊の数は多数に上った。(191頁)

 酷似したありさまが1944年から太平洋の島々で、1945年には沖縄で、何枚もの、何本もの、フィルムに収められる。そして・・・・

占者たちが河(神)に生贄を供えていると、敵は矢を射かけ、石を投じてきたが、まだこちらには届かなかった。生贄が吉兆を示すと、全軍の将士が戦いの歌を高らかに唄して鬨の声をあげ、それに合せて女たちもみな叫んだ——隊中には多数の娼婦がいたのである。(169頁)

 戦さなど犬も食わぬ。猫は尻尾も立てることなく姿をくらます。大地震の前触れのように、鼠とも手を携え、天変地異ではなく、人心の作為にこそ終わりもなく・・・・とシベリアのタイガの奥で夢のカチューシャが、群なす獣たちに向かって鋭くたしなめた。

War, children, it’s just a shot away
It’s just a shot away (Gimme Shelter / The Rolling Stones)

(扉の写真はイギリスのロック・グループ、ロキシー・ミュージックの1982年の作品Avalonより)
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著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。