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記憶を新たに物語る(クルド文学短編集に寄せて)

 先月お話しした『アナバシス』の巻3にはこんな一節がある。

「河を渡って西方に向う道は、リュディアとイオニアに通じ、山岳地帯を越えて北に向う道は、カルドゥコイ人の住む地域に通ずるという。さらに捕虜たちが言うには、カルドゥコイ人は山中に住み、すこぶる好戦的で、大王の命にも服さない。事実、嘗て十二万にのぼる大王の軍勢が彼らの土地に侵入したことがあったが、険峻な地形のために一人として帰還したものはなかったという。」
 ここに見える「カルドゥコイ人」に訳註が付いている。
「ティグリス河の東方、アルメニアの南方に住んでいた独立した民族。今日のクルディスタンのクルド族の先祖である。」

 クルドの名は昨今「イスラム国」との戦闘を軸にメディアに登場することも多い。2400年前のギリシアの著作が言う「彼らの土地」を近代的な国家に置き換えるなら、クルド人は現在も独立国としての行政権力を持たない。しかしかれらが多数派を占める地域、クルディスタンはトルコ、シリア、イラク、イランからアゼルバイジャンにも及ぶ。人口も3千万に上るが、20世紀に入ってかれらは、アルメニア人とともにトルコ政府(オスマン帝国と1923年建国のトルコ共和国)による「根絶やし」(génocide)にさらされた。アウシュヴィッツ、ナンキン、ヒロシマ、ナガサキなどと変わりのない非人道的な行為でありながら、トルコ共和国の正史はこれを認めない。

 2012年、この事実にトルコ語で挑む全作書き下ろしの短編集が編まれた。23人の若手作家が封じ込められた80年前の残虐とそれらの生きた痕跡をそれぞれの切り口から物語る。昨年末には、原著から10篇を選んだ日本語訳『あるディルスムの物語』が出版された。この「ディルスム」こそ1938年の惨劇の舞台となった地名だが、今では別の呼び名に置き換えられ、地図からは抹消されている。
 編者で作家のムラトハン・ムンガンが自らの前書きにおいて強い動機付けを、含蓄深く示唆に富んだ趣旨を綴る。そちらに耳を傾けよう。

「世間の幅広い人びとの真実を知り、学ぼうとする情熱、正義の探究、良心の必要性を前に、公認の歴史によるヘゲモニー、言語、言説、そして拒絶と否定のポリティクスが日増しに弱体化している時代を、われわれは生きている。」(12頁)

 早とちりの私は当初、世界は今どこでも同じような状況なのだと受け止めたが、何ともひどい誤読である。自分が身を置いている社会の磁場に引きずられ、いつの間にか文意とは正反対に読み違えていた。かの地でも正義、真実、良心に対する人びとからの希求が「弱体化」しているのだと。そうではなく、ムンガンのとらえるトルコはこれとは反対方向の組み合わせになっている。弱められているのは「公認の歴史」のほうだ。であれば、その中で文学が、物語が担うべきものは何だろうか。

「歴史の本や研究書、関係資料や調査結果などは、一部の読者しか興味を引かないものかもしれない。あるいは、とりわけ敬遠する読者もいることだろうし、読んでもすぐに忘れ去られてしまうこともある。だが、物語は違う。人の記憶に残る、それが物語だ。瞬間、状況、言葉、舞台、登場人物、これらは残る。このアンソロジーの目的は、歴史を文学によって更新することにある・・・・。」(13頁)

 彼の言う「物語」に、私からも根深く同調する。そして「人の記憶に残る」ためには、優れた作品であることが条件となる。自作がそれに適うとは夢にも思わないが、自分が〈小説を書いている〉ということにはつねづね違和感を覚えた。おそらく私はこのムンガンの訴える「物語」の地平をめざしてきたのだろう。
 でも、「歴史を文学によって更新する」とはどういうことか。下手をすると「捏造」にもつながりかねない・・・・そんな愚見の湧き上がる余地はなく、すぐにも書き添えられた。「更新する」とは「人生をその手からもぎ取られた人びとに、それを返すこと」であると・・・・生活も言葉も、母なる土地も奪い去られた人びとのための、更新の文学、復権の記述、真実に立ち向かい歴史に出会うための物語。その中に描き出された過去は絶え間なく現在の正義を求める。未来とはその実現以外の何ものでもない。

「文学は怨念を新たにするためにではなく、記憶を新たにするために創作されるのだから。優れた文学は、人びとが真実を認識し、事実を引き受け、責任を負い、真実に耐えうる力を与えようとしてくれるものである。」(14頁)

 このとき私の脳裏には、世を去ったばかりの石牟礼道子の人と作品が思い浮かんだ。さらに前書きをしめくくるムンガンの言葉は、私を果てしもない嵐の渦中へと音もなく招き寄せる。

「ご存知の通り、骨は肉体より長生きする。どんなに地中に深く言語を埋め込んだとしても、言葉の骨を覆いうる土など存在しない。ことばはいつの日か書かれ、語られる。」(16~17頁)

 ある作品集の前書きで私は「ここに〈砂の言葉〉がある」と書きつけたことがある。彼の説く地中深くに埋め込まれた「言葉の骨」を探し求め、ようやく私は地表の砂の中に指先を、筆先を、突っ込んだばかりなのだろう。

 翻訳書の中程に続く2篇『白頭鷲』『サビハ』に描かれたサビハ・ギョクチェンは実在の操縦士である。同じ時期、『夜間飛行』『星の王子さま』の作者にして操縦士となると、あのサン=テグジュペリに行き着くが、このサビハはトルコ空軍のみならず世界最初の女性パイロットである。しかも「建国の英雄」とされる初代大統領ムスタファ・ケマルの養女であり、ディルスムの攻撃にも加わった。だがしかし、彼女の出自については不確かな事柄が渦を巻く。彼女はどこの出身か、そもそもトルコ人ではなく・・・・ということになると、彼女による空からの攻撃の意味合いも根底から変更が迫られるのだが、それを公然と取り沙汰することは命にも関わるタブーになっている。今もなお。

c_nina26  あるデルスィムの物語 -クルド文学短編集-

  ムラトハン・ムンガン編
  磯部加代子訳

  2017年12月 さわらび舎刊行

 (扉の写真は2014年11月小豆島にて撮影。)

 


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。