bn_okamoto14

5月 冷し中華

 たくさんの人が季節の到来を待って食べるものはいろいろある。「いつ始まるんですか?」「ゴールデンウィークが明けたくらいからですかね」という会話を耳にした、あるいは自分自身が口にした経験は、たぶんかなりの回数になるはずだ。あまりに質問されるので答えるのが面倒になり、貼紙で告知するようになったに違いない食べ物の代表は冷し中華だろう。手書きどころか印刷されたポスターも存在するのだし、この推測は正しいはずだ。
 行きつけの中華料理店があった。その店の冷し中華はうっとりするほど盛り付けが美しかった。昼間ならもう半袖シャツ1枚で外を歩いても大丈夫な季節になると、いよいよ夏が始まったなと感じると同時に、あの店の冷し中華がそろそろ始まるのじゃないかと、浮き足立った気持ちになる。実際にはまだまだ先のはずで、梅雨明けの頃だったような気がするのだが、ゴールデンウィークが明けたら期待感だけで心が満たされる。だから、その店に顔を出す回数が他の月よりも増えてしまう。ところがあんなに待ち望んだ冷し中華も、いざ始まってしまえば、ここぞとばかり毎日のように頼むわけでもなく、「考えてみたら今年は1回しか食べなかったな」ということばかりだったかもしれない。ぼくにとって冷し中華とは、実物以上に期待感のほうに重きがある好物と言うべきなのだろうか。
 去年、その店は商売をやめてしまった。商売をやめる前の年も冷しは始まらなかった。実はもうひとつ、好きな冷し中華があって、その店はいまも営業を続けているが、どういうわけか、3年ほど前から冷し中華をつくらなくなった。たまらず「冷しはやらないんですか?」と訊いたこともあるが、「そうね、どうしようかな」とはぐらかされる。友人の話では、その店の冷し中華のたれは女将さんの秘伝で、他につくれる人がいないから、やるかやらないかは女将さんの気持ちひとつにかかっているらしい。それを知ってからは、友人たちと相談し、それぞれが行く度に「冷し、やってくださいよ」と女将さんに懇願するという作戦をしかけてみたが、誰も開始の確約を取ることはできなかった。
 好きな冷し中華を失ってしまったいま、それに代わるものがなければ5月に感じるあの「期待感」も消えてしまうわけで、必死に探してみるのだが、まだこれというものを見つけられていない。いや、実はひとつだけ、ここならばいいかなという店が築地場内にある。去年の夏に食べてみてそう思った。ただ、市場が豊洲へ移転することが決まっているから、その先どうなるかがわからず、この店を「期待感」の拠り所にしてしまうと、また悲しい思いをするかもしれないと、今年は二の足を踏んでしまっている。

c_oka28

 


著者プロフィール

月刊連載『好物歳時記』毎月14日公開
icon_okamoto岡本 仁(おかもと ひとし)

ランドスケーププロダクツ
北海道生まれ。いろんな町をブラブラして、いつも何か食べてる人
と思われていますが、いちおう編集者です。
著者は『ぼくの鹿児島案内』『ぼくの香川案内』『果てしのない本の話』など。
雑誌『暮しの手帖』で「今日の買い物」という旅エッセイを連載中。