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月の本棚 六月  サピエンス全史

そのシェフはインタビューの時、唐突に「『サピエンス全史』読んだ?」と尋ねた。読んでいないと答えると、「話にならない」と、語られるはずだったであろうことが、それきりになってしまった。その時、何かものすごく大事なチャンスを逃した気がしたのだ。

帯に数十万部突破したことが華々しく書かれているようなベストセラーに、興味をもったことはなかったけれど、読んでみると、もっと早く読んでいたら……と思う本だった。インタビューの前に。あるいは(まだ本は書かれていなかったが)、子供の頃に。読んでいたなら、生物も化学も世界史も地理も、少しはおもしろく学べただろうし、政治や宗教に対する考え方も変わっていたかもしれない。

ホモ(ヒト属)・サピエンス(賢い)。遠い昔の教科書で見たきり、それについて深く考えてみたことがなかった。ましてや、それ以外の人類種に思いを巡らすなど、過去一万年間、他の種と出会ったことのない私たちには難しい。「それ以外」が滅びたのか滅ぼされたのかは不明だけれど、私たちが唯一の人類種として今ここに在ることの理由を、著者は「比類なき言語のおかげでは」と推測する。
言葉のチカラ。でもそれはただの情報伝達力ではないのだ。

「サルが相手では、死後、サルの天国でいくらでもバナナが食べられると請け合ったところで、そのサルが持っているバナナを譲ってはもらえない」。

サピエンスの特長は、虚構(フィクション)を語り、共通のそれを大勢で共有できることだという。それは他人同士でも柔軟に協力し合うことにつながり、より強い国家や会社を成り立たせるのだ。

ハンムラビ法典やアメリカの独立宣言の有名な文言を、「この原理に即して行動すれば、厖大な数の人民が効果的に協力して公正で繁栄する社会で、安全かつ平和に暮らせる」という約束だとしたうえで、その原理が有効なのは、サピエンスが創作して語り合う神話の中だけだとバッサリ斬る。そして、それらの有名な文言を、生物学の視点で矛盾のないよう、言い換えてみせる。

理系の視点からとらえた事実を、アイロニカルに、わかりやすい文章で書いているところに意表をつかれる。

古のサピエンスが、飢えや病気がより少なく快適であったはずの狩猟採集生活を捨て、定住農耕生活に移行したことを「小麦に家畜化された」と表現するのも興味深い。個々の人生には決して良いものでなかった変化も、長い目で見れば人口を増やすことに繋がったのだ。「企業の経済的成功は、従業員の幸福度ではなく銀行預金の金額によってのみ測られるのとちょうど同じで、一つの種の進化上の成功は、DNAの複製の数によって測られる。」

幸福度。ここに主題があると思う。持てるものに満足する方が、欲しいものをより多く手にいれるよりも大切だということは、既に何千年も前、哲学者たちによって見抜かれていた。今、科学界では、2500年にわたって幸福の本質を研究してきた仏教哲学に、関心が高まっているという。

カヌーからスペースシャトルにまで進展させてきたサピエンスの、向かう先はどこなのだろう。神のような創造と破壊の莫大な力を手に入れても、個々のサピエンスの幸福度は増さず、いつも不安と不満でいっぱいだ。「自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど、危険なものがあるだろうか?」。そんな言葉で、この本は締めくくられる。

『サピエンス全史』は世界48カ国語に翻訳されている。

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『サピエンス全史』上・下巻 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 (河出書房新社 2016)


著者プロフィール

月刊『月の本棚  清水美穂子のBread-B』毎月24日公開
icon_shi 清水美穂子
ライター・ブレッドジャーナリスト

普段はBread+something good(パンと何かいいもの)をテーマに執筆・発信していますが、ここではBread-B。Bを外してしまって、Reading周辺のsomething goodを書いていきたいと思います。
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