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三十杯目 僕とタクシー運転手

「なんだ。必死に手を振ってるから、どんな急ぎかと思ったよ」

6歳から18年もの間、結核治療のため蓼科の山奥に入院していた志穂子は、一人で電車に乗るのも、タクシーに乗るのも、初めての経験だった。

だから彼女は、テレビドラマで観た、道路にやや身を乗り出して大きく手を振ることが、タクシーの正しい停め方だと思っていた。

これは、宮本輝さんの小説「ここに地終わり海始まる」のある場面。僕が人生で三番目に好きな小説だ。(恋をすると二番目になる)

ストーリーが綺麗で、終わりに向かうまでの道筋が丁寧で、登場人物が皆、一生懸命生きている。

彼の小説には、タクシーがときどき登場する。特に、愛する人の元へ急ぐときに使われることが多いように思う。

でも僕は、好きな人から逃げるためにタクシーを使ったことがある。偶然通りかかったタクシーに飛び乗り、身を隠すようにして行き先を告げ、運転手と目が合わないようずっと顔を伏せていた。

ずいぶん遠回りをされたけど、構わなかった。あのときの僕にはまさに助け船だった。思い出したくない、嫌な夜のこと。

深夜、タクシー運転手と会話するのが好きだ。毎日たくさんの人間を見ている人の一代記は、なかなかに面白い。

ここ数年で一番変わっていたのは、二ヶ月前に出逢った「忘れな草おじさん」。倍賞千恵子さんの「忘れな草をあなたに」という曲の良さをひたすら熱弁する60半ばのおじさんだ。

「必ず聴いてください」と何度も念を押すので、「家に帰ったら動画で検索します」と言うと、「いまは携帯でも観れるでしょう! ほら、いますぐ聴いてください」と急に怒りだした。

聴かないと終わらないなと諦めて、大音量で車内に流す。おじさんは満足そうに口ずさみ、二回リピートしたところで目的地に到着した。

「休日に山へ行き、これを作って、お客さんに配るのが私の生きがいなんです。捨てても構いませんので、貰ってください」

降りるとき、忘れな草の押し花を渡された。おじさんの口調は急に弱々しくなり、なにかを懐かしむような目になった。忘れな草は母の好きな花なんだけど、長引きそうなので黙っていた。

彼は、忘れな草の花が好きだとは一言も言わなかった。昔愛した人が好きだったのだろうか。そう思うと、青紫色の小さな“生きがい”が、急にじっとり湿気を帯びたものに思えてきた。

倍賞千恵子さんは、いつまでもいつまでも忘れないでと歌っていた。目黒通りを左折していくタクシーは、とても寂しそうに見えた。


著者プロフィール

月刊連載『外苑前マスターのひとりごと。』毎月15日公開
icon_saeki佐伯 貴史(さえき たかふみ)

BARトースト』のマスター
コーヒー会社で営業を経験後、雑誌の編集に興味を持ち『R25』『ケトル』等の媒体に携わる。歌と本と旅と人が好き。餃子は酢とコショウで食べるのが好き。