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月の本棚 八月  猪熊弦一郎のおもちゃ箱

猪熊弦一郎という画家の名を知る人は、それほど多くないかもしれない。
でも、彼がデザインした三越の包装紙ならきっと、見ているはずだ。波に洗われるうちに角が取れ、丸みをおびた石に喚起されて描いたというやさしい曲線は、直線的な箱を包んだ時に絶妙なバランスをみせる。

『猪熊弦一郎のおもちゃ箱』を読んだとたん、今まで自然にそこに在って意識していなかった絵柄が、それを描き出した画家の視線が、たちまち可視化され、ただの包み紙だったものが、ひとつのアート作品として、私の前に立ち現れた。

このひと月ほど、まいっていた。
そういうときはただただ、自然の風景か、やさしい本を眺めるに限る。

猪熊弦一郎という人は、楽観主義者なのだろうか。
大戦中、従軍画家としてビルマに派遣された時も、ニコニコと楽しげに絵を描いていたという。理由は、見たこともない大自然の景色を見ることができて、心がやすらぐから。どんな状況下にあっても、美しいものを見出す才能が備わっている人だったという。

そのビルマでも常に携帯して、生死を共にしていたという古いオルゴールの話が好きだ。もとは「巴里の骨董屋」のショーウィンドーにひとつだけ置いてあり、ようやく話せるようになったフランス語で、ヒゲの店主から買ったという「独逸製の」ポケットオルゴールの話だ。共に時を重ね、生涯手離せないものとなった。

「夜寝ていると何とも言えない不思議な野獣のにおいと、重い咆哮が聞こえて来た。私はそっとこのオルゴールを取り出して廻してみた。恐ろしいこの真黒のジャングルの中に、およそ世界を異にした実に可愛いワルツのメロディーが流れて、現実とは思えないような気持ちになり、いつまでもこの小さなハンドルを廻し続けていた。」

伝記と作品紹介に始まるこの本の、後ろから1/3はそんなふうに、本体以上の魅力を放つ付録のようだ。猪熊さんが子供のような興味と愛情を注いで蒐集した宝物(がらくた的なものも含まれる)にまつわる物語が、彼の言葉でユーモラスに語られる。

「永い永い友よ」と猪熊さんはモノたちに、呼びかける。
宝物の数々は今、香川県丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA)にあるのだろうか。
「新しさということは自分です。自分を一番出したものが新しい。昔とか今とかいうんぢやないのです。他人の持たないものが出る。それが新しいということです」

これは、美術館のサイトに書いてあった猪熊さんの言葉だ。
初期の画風はマティスのようであり、やがてピカソのようになった。それが、時代と共にどんどん変わる。器用で柔軟な人なのだ、と思っていた。

1955年、画家としての自分を見直すために、52歳で再びパリへ……と、向こうで生活するための荷物も送ったにもかかわらず、先に立ち寄ったニューヨークにすっかり魅了され、パリ行きをキャンセルして、そのまま20年もニューヨークに住み続けてしまったという。そこで開花したモダンでユニークでやさしい画風は、もはや誰かの何かと似ているわけではなかった。猪熊さんそのものだった。

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『猪熊弦一郎のおもちゃ箱』丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・公益財団法人ミモカ美術振興財団監修(小学館 2018)


著者プロフィール

月刊『月の本棚  清水美穂子のBread-B』毎月24日公開
icon_shi 清水美穂子
ライター・ブレッドジャーナリスト

普段はBread+something good(パンと何かいいもの)をテーマに執筆・発信していますが、ここではBread-B。Bを外してしまって、Reading周辺のsomething goodを書いていきたいと思います。
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