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蛸のサンダル 第27話 勇気(前編)

25年5ヵ月、前回書いた経緯で入社した柴田書店という料理と飲食業の専門出版社に務めた。過去形なのは、8月末日で退職したからであります。

そんなに長く勤めることになろうとは、本当に思ってもいなかったし、辞めたいと思ったことも何度となくあるのだが、続けたのは食の世界が好きだったからなのか、それとも辞める勇気がなかったからなのか。

ともかく10年分ぐらいの勇気をかき集めて、辞める決意をした。世の中には身軽に会社を移ったり職種を変えたりぷらぷらしたりする方もいて、取材などでそんな話を聞くと、わたしには一種の武勇談のようにも思えていた。だから大げさに「勇気をかき集めて」なんて言うのだけど、本当はそんな大げさなことじゃないのかもしれない。

退職となると、緊張しながら辞表を出すことに始まり、意思確認の面談があり、健康保険やら年金やらあれこれ手続きもあり、「雇用」の仕組みがリアルに感じられるようになる。ああ、そうか、雇用とはただの契約なのだと冷静な気持ちで見ることができる。わたしは溜まった有給休暇を消化して、自分の中に長年蓄積された「柴田書店的なもの」と向き合い、それをギュッとパックして記憶の底にしまう作業をした。コンピュータで言えばハードディスクのデフラグと圧縮で、空きスペースをつくった。流れていた時間をいったん止め、新しいOSを入れる準備をする。その作業をしたら、緊張した心に穏やかさが戻った。

次に、最終日に仲間にあげる菓子は何がいいか考えた。以前辞めた人たちがお菓子を配っていたのを見ていたから、”辞める時はお菓子を配る”と刷り込まれているのだけど、これは一般的なビジネスマナーであるかどうかは不明だ。ともかく50名ほどに常温で配れて、あまり重くなく、アサイさんらしいねと笑ってもらえるものは何か?

やっぱりあれでしょう。わたしは、バウムクーヘンで日本一有名な企業のC嬢に連絡して、小分けのバウムを配りたいと思ってるんだけどと相談。この企業とはドイツ菓子の本を一緒に制作した関係だ。話を聞いたC嬢は「オリジナルのスリーブとかつけちゃう?」と言うのであります。え?その商品にスリーブなんかあったっけ?

「ないですけど」
私家版として買った商品に勝手につけたらどうか?と言う。わたしはその突飛な提案をありがたく受け、C嬢に言われるがままにイラストを描いた。

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しっぽのある招き猫。下手だけど許してもらおう。これをC嬢がご厚意でデザインしてくれて、次のようになりました。

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一つひとつ手貼り。数がまあまあ多くて、宛名や個別メッセージまでは書く余裕なし。

最終日、勝手に自作スリーブをつけたバウムクーヘンとともに出勤。みんなに手渡して別れを告げた。さよなら柴田書店。長い間お世話になりました。

ゼットン創業者で今はDDホールディングス取締役になられた稲本健一さんが『ハワイに住んでサーフィンしてたら会社やめちゃいました』という衝撃的なタイトルの本を最近出版なさったけれども、わたしは「プチメックで蛸サン書いてたら会社やめちゃいました、だなあ」とジョークを言ったらふざけてると叱られそう。ともかくこれで、わたしも瞬間的「職業:無職」を経験することになったのであります。

もちろん、無職になりたくて会社を辞めたわけじゃない。仕事がいやで逃げて辞めたわけでもない(逃げるのが悪いとは思っていないけど)。どちらかと言えば大好きです。じゃあ、なんで辞めたのか。理由と目的は、次号につづく、ということで。


著者プロフィール
月刊連載『蛸のサンダル』毎月6日公開
icon_asai浅井 裕子

元、出版社 柴田書店勤務。外食業担当からキャリアをスタートし、料理技術、宿泊業、製菓製パンなど幅広いジャンルをカバーする食の編集者。パティシエの小山進さんや辻口博啓さんの書籍などを担当。「mook 洋菓子材料図鑑vol.4」編集長、「mook The Coffee Professional」編集長など。趣味はベランダ園芸。今夏はジャガイモとナスを栽培中。