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ゲバラの陰影

 誰も疑わない休息の夜、ゲバラの孫が目覚めた。其はまやかしの光明にあらず、遠い陰影の真下から俄かにさ迷い出た男が、望まれし暗闇を静かに解き放つ。そこに包み隠された光の道筋を、読み進む者がなまめかしくも受け入れる。多情なプリズム反射の裡に一瞬の輝きを見せた、文字と呼ばれる戸惑いの形象、そこに遺された歴史的な人物からの痕跡が、目にした者の網膜の思考を長く折りたたむ。いまこの世界から失われゆくものも含め、それらはたちまち幾千もの異言語に翻訳された・・・・どれ一つとして聖なるものを含まぬ概念、可視を遠ざける掟の数々を人工の庭園 - 支える根元はことごとく打ち消された - そんな庭園もよろしく編み上げ、選り取り見取り、誰も見た覚えのない絵画が描き出される。色彩が溶け出してのちに訪れるモノクロの考察、その一文一文がかくも濃密でありながら、素材とされる因子には、目にも止まらぬ下層のリゾームを通じ、思いも寄らぬ未開へ繋がれるような発見への予感、それを遥かに上回る実現への前提、その全てを裏切ってもなお筆はどこにも折れることを知らないという強靭さが貫かれた・・・・

 先月はじめたばかりの「大車輪」のシリーズは早速お休みをいただき、新刊をご紹介する。刊行の開始からまもなく四半世紀を費やすが、なお完結を見ていない全20冊のシリーズがある。現代企画室の〈インディアス群書〉である。ラテンアメリカの、それも先住民を初めとする内部からの視座を強く意識した15の著作をこれまで連ねてきた。いずれも翻訳だが、たとえば2007年に出た第13巻『グアヤキ年代記 遊動狩人アチェの世界』はフランスの民族学者ピエール・クラストルの主著だが、私自身の創作の上でも学ぶところじつに大であり、もう一つの主著である La Société Contre L’État(国家に抗する社会)を繙く導きにもなってくれた。思えば第1回配本の『私にも話させて アンデスの鉱山に生きる人々の物語』(ドミティーラ/M・ヴィーゼル)が世に出たのが1984年の秋だから、以来今年で24年が経過するが、この7月に第16回の配本となる新たな1冊が加わった。

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インディアス群書第17巻『チェ・ゲバラの影の下で/孫・カネックのキューバ革命論』
(カネック・サンチェス・ゲバラ著 棚橋加奈江訳 現代企画室)

 著者の祖父は言わずもがな、あのキューバ革命の「英雄」、のちに出国し、コンゴ、チェコを経て、終焉の地ボリビアに向かった、あのエルネスト・チェ・ゲバラである。その「肖像」は今でも世界の街頭で見かける。が、そもそもはアルゼンチン出身の医師で、バイクで大陸を放浪する渦中からキューバへの道筋が開けた。その孫のカネックもまた、解説に織り込まれた自伝的著述を見ると、生まれはキューバだが、イタリア、スペイン、またキューバ、そしてメキシコへと移住をくりかえし、祖父の短命をなぞるかのように2015年、40歳で夭折している。祖父は射殺、孫は病死という相違を刻みつけて。

 副題をみると、革命を呼びかける政治的な論述を連想させるが、案に相違してと言うか、本文の記述は「文学的」な作品ばかりだ。全体は2部構成になる。

1 33レヴォルーションズ
2 掌編集

 1はタイトルの枕に冠した数値の通り、全部で33節に分かれる。スペイン語の原題は 33 REVOLUTIONES 、英語では revolution にあたるが、これを「革命」と単純に捉えては足元をすくわれる。そもそも初頭の数字は何だろうか。私なんかは成熟期を迎えたビートルズの2曲、 Revolution 1とRevolution 9(この9は現代音楽にもシフトした「実験作品」だけれど) を連想するが、当たらずと言えども遠からずだ。ビートルズの2作は、いずれも「ホワイトアルバム」(1968)に収められているが、これに対してカネックの手になるものはやはりレッド(Red 赤色)かもしれない。ただし、すでに傷が付いている。

「フロントガラス越しに、レコード盤のように傷ついた世界が通り過ぎて行くのが見える。あらゆることはそのレコード盤の上で営まれている」(17 p.31)

 この作品では折に触れ、傷のついた、あのプチ、プチ・・・・の困ったレコード盤が何度も姿を見せる。〈傷ついたLP〉がもう先には進めないという本性にも従うように、作品の舞台であろうキューバの社会が暗示される。盤の中央に描き出された同心円のデコレーションも、そこに記された各ナンバーのタイトルも、およそ見向きもされないばかりに。だから33とは、私が今なお愛好するアナログレコードの1分あたりの回転数を表わしている。ステレオかモノラルかはわからない。でもデジタルではなくて、目に見えるアナログであり、食堂で言えば見えない厨房からメニューが来るのではなくて、客の目の前で調理をして見せてくれる、そんな味わいがふんだんに読み込まれる。〈傷ついたLP〉についてはこんなことも言われる。

「彼は生まれて初めて、計画された集会という傷ついたレコード盤ではなく、自発的なデモという素晴らしい光景に立ち会っていた。」(30 p.51)

 2の「掌編集」には5篇が収められるが、第1作の「ガロンヌ川」では、作品そのものに交錯するように哲学的な思考が展開する。そこに私は、我田引水ながらも来月からここで取り上げるヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』の記述なりスタイルへと強く触発されるものを垣間見た。
 第5作の「愛のない恋愛物語」は最長で、そこには愛ばかりか「憎しみ」もない。それも否定的な意味ではなく、終始、心遣いと計算の組み合わせから意気地のない打算だけを取り除いて、愛と憎しみのいずれもがものの見事に凍結されていく。極東に身を置きながらヨーロッパ目線に毒された筆者には、なぜか20代に読んだ19世紀フランスの詩人ネルヴァルの作品「オフィーリア」が思い浮かんでならなかった。きっと私の読解の細胞が心地の良い変調をきたしたのだろう。
 大詰めも近い184頁には、学生時代から親しんできたフランスの思想家フーコーの著作が、82頁に栞が挟まれた形で男の本棚に姿を見せる。しかしその本は「腹立たしげにその辺に」投げ出されて、カネックの綴る物語はどうにか事なきを得る。

 さらに進んだところに現われた一節について、私は今も悩んでいる。一つの節ないし章が終わって次へと移る狭間にこんな短い一文が句読点もなく、丸かっこだけに包まれて差し出された。

(ここで多数ページ欠如)

 私は思わず立ち止まった。もちろんこの通りに読めば、次の部分との間にかなりの原稿が抜けていると解釈される。遺されたノートやデータに頁数が刻まれるのならなおさらのこと、それは明確になるだろう。ただ、描かれた文章自体のジャンルの問題がある。研究の論考であれば、判別の手がかりはともかくとして、この文言の通り素直に受け取られるだろう。そうか、原稿が抜けてるんだと。しかし、これは文学作品である。ということは、この丸かっこに包装された文言もまた作者の創作ととらえることが可能である。何やら私は、些末に見えてただならぬばかりの思わぬ発見にもこのとき恵まれていた。

 このところ北東アジアでは、政治的な系譜の中での二代目、三代目の登壇がやたらに目立つ。日本の武家政権を見れば、なぜか三代目には「人材」が並び立つ。室町幕府の足利義満、江戸幕府の徳川家光と、いずれも長期政権の礎を築いた「傑物」と評されるが、実態は果たしてどうなるのか。先立つ鎌倉幕府になると第三代は源実朝で、ご承知のようにこちらは秀でた詩人としてかの『金槐和歌集』を遺したが、政治生命は苛酷で、母方の差し金で殺められ、源氏の直系は絶たれたとされる。現在の北東アジアはどうなのか? 
 チェ・ゲバラからの三代目がたどった数奇な、決して長くもなかった政治と芸術、双次元の転変に膝突き合わせて接するとき、私はあらためてこの思いを強くする。もちろん先代、先々代からの流れに対して「自分はそんなの御免蒙るよ」と道を翻す人びともいるだろう。その一方で、そういう者は全く容赦をしないという冷酷な事例にも接することがある。
 いずれにしてもこの辺りでは、少なくともこの日本に限っても、「あの方は誰々の息子さん/娘さん、お孫さん」などと言って、それだけを専権の「遺伝」的な前提として、謂れもなく崇め奉るような伝統がなおも根強いことだけは否めないだろう。すこぶる窮屈なお話である。思考せざることへの終わりなき愛着と頽廃、それも「伝統」とやらを携えての・・・・2014年のこと、ジュネーヴにある国連の人種差別撤廃委員会でさる審議担当から「日本はいまだ中世」と評されたと聞くが、決して故なしとはしない。語られる「中世」の実像についても絶えず改めて、評価と点検を加えなくてはならないのだが。それから4年が経って、同じ組織が定期の対日審査の総括所見を発表した。その中で、沖縄への米軍基地の集中は「人種差別」であり、ウチナンチューは「先住民族」としてその権利を保護するように勧告している。これを8月31日の琉球新報が報じている。

(扉の写真。いずれもチェ・ゲバラの「肖像」を胸に掲げるが、左の赤シャツは2005年の夏、アムステルダム中央駅近くのマーケットで買ったもの、右の白地は1882年の秋、販売用に仲間たちとシルクスクリーンを用いた制作したものの1枚である。)


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。