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月の本棚 九月  The Dirty Life

なぜわたしはここにいるのだろう? ほんとうのわたしはハイヒールをはき、朝の4時まで街をうろついているはずなのに、朝の4時から作業着で、農場に出て行く。

これは、ハーバード大学卒のジャーナリストで、ニューヨークで執筆活動をするクリスティン自身のドキュメンタリーだ。取材で出会った有機農業生産者、マークと恋に落ちて、その生活はドラマチックに変わる。映画のような始まり、なのだが。

この本、邦題も長いが、サブタイトルもとても長い。長過ぎてこのコラムの規格に入りきらないので、インデックスは原題にさせていただいた。原題『The Dirty Life』を直訳するなら「汚い生活」。それは泥、血、肥やし、乳、膿、汗、機械油、脂、内臓、そして、ありとあらゆる腐食物にまみれた農場の暮らしをさす。

子供の頃、くり返し読んだ本がある。ローラ・インガルス・ワイルダーの『大きな森の小さな家』のシリーズだ。とうさんが造る家屋、カエデの木にバケツをぶら下げて採取するメープルシロップ、バターをつくり、挽き割りトウモロコシのパンを焼き、子豚の(潰すときに彼女は枕に顔を押し当てて耳をふさいでいるのだけれどもその後で)尻尾をカリカリに焼いたのをおいしく食べ、といった話に魅了された。暮らしのすべてを自分たちの手でクリエイトしていく感じに、心動かされたのだった。クリスティンのパートナーのマークは、ローラのとうさんのような男性かもしれない。この人とならどこでも生きていける(ただしマンハッタンのような都会を除く)。猟もできる。料理もプロ並み。

二人はニューヨーク北部で、自家製の堆肥と緑肥のすきこみを用い、農薬や除草剤は使わず、動力としておもに馬を使って畑を耕す農場を始める。メープルの林を所有し、乳牛、肉牛、豚、鶏を飼い、ソーセージやパテまでつくる。

「土と、水と、太陽と、汗を足せば、食べ物ができる。工場不要、機械もほとんど不要、殺虫剤も化成肥料もいらない。こんな豊かな世界があることに、なぜいまのいままで気づかなかったのだろう」。いつ何が起こるかわからないこの世の中で、クリスティンの感じた安心感はとても理解できる。

月あかりもない闇の中、二人きりで、息をひそめて鹿を撃つシーンがある。また別の夜、農耕馬とともに、種イモを植えるシーンがある。その光景は夢のように美しい。しかし、汚い生活は現実だ。「農場は待ってくれない。応えなければ、たちまち死の力、野性的な自然の力に押しつぶされてしまう」。だから日が暮れても農耕しなければならない日もあれば、屠殺の日もある。農耕。マークは農場の仕事をwork(労働)ではなく、farming(農耕)という。

クリスティンは書いている。「自分の行動がはっきりと結果に結びついて見えるのは、初めてのことだった。なにをしているのか、どうしてそうするのか、すべてわかってやっていたし、そこには信念もあった。理想とする自分と、じっさいに行動する自分とのあいだの差が縮まって、ゆっくりと紛れもない自分自身ができあがっていく気がした」。

それは、おそらく農に限らず、真摯に取り組む、ありとあらゆる仕事において言えることかもしれない。やってもやっても終わりのないこの仕事が好き、と言ったパン職人の言葉を、思い出した。

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『食べることも愛することも、耕すことから始まる
 脱ニューヨーカーのとんでもなく汚くて、ありえないほど美味しい生活』
クリスティン・キンボール著 小梨直訳(河出書房新社2012)


著者プロフィール

月刊『月の本棚  清水美穂子のBread-B』毎月24日公開
icon_shi 清水美穂子
ライター・ブレッドジャーナリスト

普段はBread+something good(パンと何かいいもの)をテーマに執筆・発信していますが、ここではBread-B。Bを外してしまって、Reading周辺のsomething goodを書いていきたいと思います。
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