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大車輪1 - 永くかけるところ -

 「初版までに『惡の華』創作にかけた歳月、15年。」
        (ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論-Ⅱ ボードレールのパリ』より)

 「大車輪」シリーズに戻る。8月、プロローグでは、私自身の読書遍歴を彩る余りにも緩慢な遡航についてお話をした。今月からは、その出発点となったヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』(1945年)について考えを巡らせよう・・・・となるべきところ、あともう一回だけ異なる序説を掲げる。それがこの、私が永くかけるところ、である。
 私のような作家についても、SNSやブログではない活字の媒体を通じて言及をいただくことがある。たとえば昨年末に刊行した新著をめぐっては・・・・

「蜷川泰司『スピノザの秋』(河出書房新社)は、文芸誌の「外部」にある書き手だが、書き込みの密度が産んだ蠱惑的な迷宮性に圧倒される。じっくり味わいたい作品。」
(岡和田晃「〈世界内戦〉下の文芸時評」第36回 図書新聞 2018年2月17日)

 岡和田晃は、このコラムでも触れたアイヌ民族とその現状についても積極的に論じる文芸評論家である。作者としては、氏が拙著をじっくり味わわれたのちのご所見も是非うかがいたいところだが、興味深いのは「文芸誌の「外部」」という彼の設定だ。括弧が施されて意味の留保や異化がなされるが、なるほどその通り、今日まで私は著名な文芸誌の「外部」で活動を続けてきた。最近お世話になっている河出書房新社も『文藝』を出しているが、それ以外にも4誌が思い浮かぶ。アプローチしないでもなかったが、こちらの能力不足で、何の関わりもなく今日まで仕事を続けてきた。
 あえて申し上げるなら、文芸誌は「文芸村(ぶんげいむら)」ないし「文壇村(ぶんだんそん)」を構成する。そこに世に言う「原子力村」と共通するニュアンスを伴わせている。こちらの「村」が原発を受け入れた小さな行政単位を意味しないことは、多くの読者がご存知だろう。簡単に言えば、原子力政策とその維持をめぐって、産学官が一体となり、政治と経済、さらには文化にも関わってきた独占と統制のエリアである。そのような機構の性格を文芸に当てはめるのは不明の誹りも免れないだろうが、しかし当たらずといえども遠からずと思われる部分がある。詳説には及ばないが、何やらそれを象徴するような印象を与えてくれるのが、毎月繰り返される各誌の新聞広告である。朝日しか知らないが、毎月一回、決まって第2面の下部に(河出の『文藝』をのぞく)主要4誌、つまり『新潮』『文学界』『群像』『すばる』が横並び一線に最新号の広告を載せる。内容以前に、「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」といった有様には首を傾げたくなってくる。というか、少々薄気味も悪い。
 村社会にはさまざまな掟があるのだろう。そして守らない者には場合によって制裁も課される。私が命名するところの「文芸村」に同様の制裁があるのかどうかは与り知らぬが、掟の存在は「外部」にいる人間にも何となく、しかし容易には消し去り難い印象を伴って見透かされる。ただ、文学活動の「名誉」のために擁護しておくと、こちらの村には、「原子力村」のようにいつになっても終わりの見えない事故を起こしたり、人も文字も、だから言葉そのものの残存が未確定な遠い未来まで、長く生命体に害を及ぼし続けることが原子物理学の知見として確定したあの「廃棄物」が生じるという懸念もない。紙の過剰な消費による森林資源へのダメージなら取り沙汰されることがあるし、ろくでもないもの、無用の長物、とある種の「理系」の方々や政治家の諸先生からはお叱りを受け、あるいは「奇人」を眺めるような侮蔑の目を向けられることもあるのかもしれない。さらには司直から「風俗壊乱」などと槍玉にあげられたとしても、焚書、禁書は文明の恥辱、それを形作る者たち自らの息の根を着実に止めていく。
 数々の伝統技芸にも当てはまることだが、或る種の厳格な掟なり作法を遵守し、切磋琢磨する中から作り出されてくるものの中に逸品の混じらぬという道理は成り立たない。そうやって数々の名作が積み上げられてきた。その上でなお戯言を積むならば、「村」にはいつでも取り巻く「外部」がある。村は定住者の社会、大抵は農民が主流となり、海に面しては漁村も点在する。かつての山野には狩猟採集の民もまた集落を営んだ。もちろん彼らの「定住」については、農村と次元を異にするだろう。そして村の外には非定在の民が暮らし、日夜縦横に行き交う。そのような流浪の民もまた各種の生業をもってこの世を作り上げる。ときに村の中からは蔑みの目も投げかけられ、卑しい者たちとのレッテルまで張られる。食の基礎において重きをなすのが農民を筆頭に村の定住者だとしても、その外部に身を置く者もまた人間世界の成立には有形無形の産物をもって貢献する。近年、流浪の民には現代哲学の手で新たに「ノマド(nomade)」という秀でた概念も授けられる。ここで、私の申し上げた「人間世界」を「文学の」と置き換えてみよう。
 文学、そして芸術世界の生産活動も村の内部だけでは賄われず、外部との共同や、ときに激しい相克の中で受け継がれてきた。典型的には1960年代の芸術がある。いわゆるアンダーグラウンドと称し、また称された活動の中から、各分野にわたる目覚ましい新生がもたらされたことはいまだ記憶に新しい。そこには躍動する創作のダイナミズム(dynamisme)がある。そうした時期、「村」にもそれに見合うだけの柔軟性(flexibilité)が求められざるを得ない。もしも硬直の度合いが著しい場合は、「村」は改組から解体も余儀なくされる。さらに道筋と配置によっては、文化そのものの衰微もまた必然となる。これを悲劇と捉えるのか、それとも喜劇と見過ごすのか、それこそが個々人に託された思想の自由だと、私はいま考えている。

(次回は『ウェルギリウスの死』に何とか漕ぎつけます。また12月にはまたお休みをいただき、本の紹介をする予定です。)

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2018年9月11日夕刻。自宅近くの仕事部屋(マンションの7階)から東方を見る。左端が比叡山、中程が大文字、そう言われる前も言われた後も、ごくごくありふれた山並みである。


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。