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蛸のサンダル 第28話 勇気(後編)

10年分ぐらいの勇気をかき集めて長年勤めた出版社を辞め、9月は1ヶ月無職の身で過ごした。仕事をせずに暮らせるほど資産家でもないので、当然また働くことにはなる。長年、版元の編集として生きてきた者が、次の仕事として考える選択肢はいくつかあった。辞表を書く少し前までは、そのどれになるのか心は決まっていなかったのが正直なところだった。

過去に辞めた同僚のケースを見れば、選択肢は次のようになることはわかっていた。
❶フリーランスのライターまたはジャーナリストになる
❷フリーランスの編集者になる
❸別の出版社に移籍する
❹学校の講師や他の職種(たとえばバリスタとか)に就職する

❶は原稿を書いて生きていく方法、❷はそれに編集が加わり、❶と❷を兼務しながら前職場へも寄稿するOBの方が少なくない。辞意を聞いた前職場の人たちもそのように想像したようだった。❸とも❹とも言わないで辞めたのだから、そう思うのも当然だ。

しかし、わたしはそれらとは違う道を選ぶことにした。
自分の出版社をつくることにしたのであります。

❺出版社を起業する

が、わたしが選んだ道であるけれど、自分の中では方向性が前職と競合しないと思っていても、聞くほうはいい気がしないのではないかと思い、このことは誰にも明かさずに前職を後にした。どんな出版社をめざしているのか、だからここに書くことで彼らは初めて知ることになる(読んでいれば、だが)。

出版社は日本にすでにたくさん存在している。そして産業としては円熟期をすぎ、インターネットでの情報伝播に押され、「紙媒体」としての存在価値は揺らいでいる。衰退期に入ったという見方も強いし、内部にいたわたしは日々危機感を感じながら仕事をしていたのだから、既存の出版社の後を追う存在になっては産業のエンドランナーになるだけ。やるからには、何かしらのファーストランナーにならなくては?

なので、出版社でありながら出版社ではない。そんな会社をつくろうと思っている。本や雑誌をつくって出版することが目的ではなく、わたしにとって生涯のテーマである「食」をもっと楽しく深く知り、広めるためのことなら、手段は本でなくても構わない。デジタル書籍あり、オンラインエデュケーションあり、ワークショップでの実体験あり、一から始めるんだからなんでもできる。情報ソースなら、日本のトップクラスの食のプロフェッショナルたちがついている。めざすテーマは「大人とこどもの食育」だ。そう思ったら、急に「やれるかも」「いや、むしろ、いまやらなくては」という気になった。次世代を育てるのに早すぎることはない。

会社の名前は「anemosu」(アネモス)とした。「anemos」はギリシャの風神様の名前で、ユウコの名前から1文字「u」を添えさせてもらった。アサイカンパニーとかアサイ出版とかいろいろ考えたけれど、偶然目にしてしっくりきたのがこの名前だった。いい風を送る存在になりたいと願っている。

出版社として起業するのは、たとえるなら名店で修業していた料理人が自分の店を持ちたいと言って独立開業することに似ている。そう説明したら、とあるフレンチシェフは「そう聞いて、腑に落ちました。いまの店にいても料理はつくれるし、身分は安定している。独立してもうまくいくか、やってみなければわからない。でもいつかは自分の店を出さずには死ねない、ということですね」とうなずいてくれた。はい、その通りなのであります。

そんなこんなで、新しい人生が始まりました。「蛸のサンダル」はこれからどうなるのか? ここでいったん区切りをつけたいと思います。SEASON1は終了、次回からはSEASON2の始まりです。何が変わるのかというと、イラストのお題が変わります。サンダルを履いた蛸または履物を履いた海洋生物を描いていただきましたが、次からは前号のバウムクーヘンのスリーブのように「招き猫」を課題として、皆さんにお願いしていく所存です。蛸の練習をしていた皆さん、ごめんなさい。ぜひ”猫”で、SEASON2での登板にお備えくださいますように。

あ、タイトルは変わりません。今後とも何とぞ、ご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。


著者プロフィール
月刊連載『蛸のサンダル』毎月6日公開
icon_asai浅井 裕子

株式会社anemosu代表取締役。東京・新宿生まれ。食の老舗出版社に編集者として25年5ヶ月勤務したのち、退職。2018年10月に独立起業。日本の「食」と「大人とこどもの食育」をもっと楽しく深く広めることをテーマに、出版、情報サービス、教育サービスなどを通じて多角的にプランニングしていく予定。趣味はベランダ園芸と料理。血液型はO型、天秤座。