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11月 花巻蕎麦

 何年か前の暮れも押し詰まった時期に、老舗の蕎麦屋でかけ蕎麦を食べた。少し離れた席に座ったきちんとした身なりの男性が、連れの女性に向かって話している。よく通る声だったから、聞こうとしなくても会話はすべて耳に入ってきた。何と言っても蕎麦は冷たいほうが美味しいのだから、どんなに寒くたってざる蕎麦などをあえて頼むのが粋というものだ。そんな内容だった。鼻水を啜りながらかけ蕎麦を食べているぼくは、粋のかけらもない男なのかと肩をすくめるしかない。他にも温かい蕎麦を食べているお客さんがいたから、その人たちもさぞかし鼻白んだことだろう。もちろんぼくは冷たい蕎麦も大好きだけれど、どちらかといえば、温かい蕎麦で美味しいと思える店こそ、いい店なのではないかと考えている。
 秋が深まると、蕎麦屋に「新そば打ち始めました」という紙が貼り出される。「冷やし中華始めました」と同じくらいそわそわしてしまう貼紙だ。その時期はちょうど新海苔の季節とも重なるから、11月が近づけば何処の蕎麦屋に行っても、品書きに花巻蕎麦がないかどうかをまず探してしまう。花巻の花は「磯の花」と呼ばれていた海苔のことだ。かけ蕎麦にもみ海苔を散らしただけのシンプルなメニューである。
 注文した花巻蕎麦が蓋つきの丼で運ばれてくると、そのことだけでいい店だなと思う。温かい汁の上で、その熱と適度な湿り気によって海苔の香りが際立ってきて、それを封じ込めたままテーブルに運ばれてくる。蓋を取った瞬間の感激。相席が当たり前の店だったら、近くの席の人がみなこちらを振り向かんばかりに芳香を放つ。蓋は花巻蕎麦にとってなくてはならないものだ。そういえば、浜松にある知り合いの蕎麦屋が、ようやく意にかなう蓋を見つけたらしい。蓋の内側は店の名前を入れたようだから、早々に出かけて花巻蕎麦を頼み、蓋を取ったらまず鼻先が汁に触れんばかりに近つけて香りを楽しみ、ひっくり返した蓋に書かれた店名を眺めたいと思う。

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著者プロフィール

月刊連載『好物歳時記』毎月2日公開
icon_okamoto岡本 仁(おかもと ひとし)

ランドスケーププロダクツ
北海道生まれ。いろんな町をブラブラして、いつも何か食べてる人
と思われていますが、いちおう編集者です。
著者は『ぼくの鹿児島案内』『ぼくの香川案内』『果てしのない本の話』など。
雑誌『暮しの手帖』で「今日の買い物」という旅エッセイを連載中。