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三十四杯目 僕にとっての紫式部

愛らしい実をたくさんつけた紫式部の枝を見ると、秋がやって来たんだなと思う。

人の記憶はあてにならないもので、いい想い出が実はつまんなかったなんてのはよくある話。だけど、忘れた記憶のなかに、素敵なことが隠れている場合もある。

「あ、紫式部や」

中学生のときひそかに思いを寄せていた先輩がいた。卒業後、二人で京都の街を散歩していると、民家の軒先に紫式部を見つけた。

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に

百人一首にある紫式部の上の句を詠んだ僕に、

雲がくれにし 夜半の月かな

と返したあの子。いまはどうしているだろう。小さな喧嘩をして音信不通になったけど、忘れた記憶のなかに、もっと素敵な想い出があったのかな。

そんな未練がましいことを思うのは、紫式部の花がとても似合ってたから。僕にとっての紫式部は、黒髪で聡明で気の強い女の子だった。

僕の地元では、中学二年になると「少年式」という式典を行う。昔の元服に由来するもので、14歳になったら大人としての自覚を持ちなさいという教えから生まれた行事だ。

全国的な行事と思っていたので、そうでないと知って驚いた。比較的めずらしい習慣で、しかもこの呼び名は愛媛だけだとか。

この式典で、生徒代表として作文を読んだ。正しくは、読んだらしい。僕にその記憶はない。

母が言うには、僕は職員室に行き、担任と学年主任に辞退を申し出たそうだ。「もっと優秀な生徒はたくさんいるのに、なぜ自分が選ばれたのか納得できない」と抗議をしたとか。なんとも僕らしい。

嫌で仕方なかった作文を、母はとても嬉しかったよと話してくれた。そんなことすっかり忘れてたけど、母が喜んでくれたのなら良かったな。

私はね、子育てでいっぱい楽しい思いをさせてもらったの。だから全部、忘れたらいかんと思って。

作文に書いたような立派な大人になれなかった息子と、ときどき電話で昔話をするのを、母は楽しみにしている。


著者プロフィール

月刊連載『外苑前マスターのひとりごと。』毎月15日公開
icon_saeki佐伯 貴史(さえき たかふみ)

BARトースト』のマスター
コーヒー会社で営業を経験後、雑誌の編集に興味を持ち『R25』『ケトル』等の媒体に携わる。歌と本と旅と人が好き。餃子は酢とコショウで食べるのが好き。