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大車輪3 - 文芸という文学 -

11月に続いて「大車輪」シリーズに回帰する。今回もヘルマン・ブロッホと彼の代表作『ウェルギリウスの死』をめぐる。)
2007年、『子どもと話す 文学ってなに?』(現代企画室)を書き下ろした。フランスのスイユ社(Seuil)が出版する「娘と語る・・」シリーズの翻訳から始まり、そこに日本独自の執筆も加わった。編集者からのご提起に応えて、テーマも自分で選び、翌08年、幸いにも出版していただいた。高校の副読本にでも選ばれたのか、10代の生徒と思しきネット利用者から、「この少年、頭、良すぎますからー!」という悲鳴にも近い書き込みがあったのを覚えている。大学でも使われるようだが、ということは、「子どもと話す」と言えるのか、看板に偽りありではないか、とのご叱責を受けるかもしれない。
 さて、この本で論じる対象を私は「文学」と呼んだ。ところがこのホームページの自己紹介では、「文芸作家」と「文芸」を選ぶ。そもそも「文学作家」という単語はない。また換喩(メトニミー)とも言えないのだろうが、「作家」だけで「文芸活動」を行なう者を表わすのによく代用される。しかし陶芸作家、映画作家という言い方もあるので、言語を表現媒体にする芸術活動という位置づけで「文芸作家」と自称してきた。
 もう少し視野を広げて見直すと、この2つの用語も指し示す領域が明確に異なるわけではない。言語による芸術分野の創作活動を「文学」と呼んでも、とくに強い違和感は生じない。『文学界』『早稲田文学』などの誌名を見れば、小説などの作品を掲載する「文芸誌」というカテゴリーが思い浮かぶ。でも、たとえば研究者に専門を尋ねて「フランス文学です」と答えられると、彼/彼女が取り組むのは創作ではなくて学術研究、その範囲でかれらを「フランス文学者」と呼ぶだろう(研究の対象となるのは文芸作品が多いのかもしれないが)。そういう意味合いでの「文学」と識別する意味で、長く「文芸作家」という言い方を使ってきた。簡単にすれば、「文学者」に対して「作家」と呼べるのかもしれないが、はたしてそれもどうだろうか・・・・
c_nina34 およそ30年ぶりで、『ウェルギリウスの死』の翻訳を再読し、とくにあとがきの次の一節に接したとき、改めて目を覚まされる思いがした。

「そうして、ブロッホも露伴やペイターのように、ポエタ・ドクトス(とローマふうに呼ばれる「学者詩人」)である。——私たちの近代文学の伝統のなかでは、こうした学問によって文学を作るという型の作家はきわめて乏しいし、(漱石や鴎外は学問があったが、学問によって作品を書きはしなかった。)露伴はわが近代文学史のなかでは孤立している。」(世界文学全集7 ヘルマン・ブロッホ 解説 中村真一郎 集英社 1966年5月)

 本格的な執筆活動に入るずっと以前にも、私はこの一節を読んでいただろう。「学問によって文学を作る」という、ブロッホの仕事に対する規定がどこまで正鵠を得たものかについては留保をつけるとしても、私は『ウェルギリウスの死』を自分が参照すべき重要な先行作品の1つとして、その延長線上のどこかに身を置いてきたのかもしれない。10月の「大車輪1」ですでに申し上げたが、これまで折に触れ、書評やご紹介をいただいた。それらの中にも、この私の再発見を裏付けるような記述がみられる。たとえば、2003年の秋に最初の長篇を出した時には、年が明けてまもなくこんなご紹介をいただいた。

「日本の風土には珍しい抽象的で反リアリズムの長編作家、蜷川泰司氏が2500枚の長篇小説『空の瞳』(現代企画室)でデビューした。・・・・この大作はジョイスの『ユリシーズ』やガルシア=マルケスの『百年の孤独』の延長にある。とくに回想と独白を織り交ぜて一晩をたどる手法は『ユリシーズ』の手法だろう。イメージ的には稲垣足穂の『一千一秒物語』や宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にも近い。」(「文壇往来」編集委員・浦田憲治 日本経済新聞 2004年2月29日)

 自分でも不思議に思うが、この記事のインタヴューを受けたとき、私はブロッホの作品に言及しなかったようだ。『ウェルギリウスの死』の日本語訳解説では、先立つ参照作品として『ユリシーズ』があげられる。またブロッホ自身もジョイス論を書いている。ひょっとすると『ウェルギリウスの死』は、軽々と例示できるようなレベルをこえて、私の思考神経に深々と食い込んできたのではあるまいかと、そんなことまで推測させられてしまう。
 2013年には短・中篇の作品集『新たなる死』(河出書房新社)を公刊、こちらについてはフランス思想の専門家にして、デリダの紹介ならびに翻訳でも著名な鵜飼哲氏から網羅的な書評をいただいた。そこにもこんな一節がある。

「ただしここにあるのは、一方では堅固な哲学的考察に支えられ、他方ではアクロバチックなまでの技巧を駆使して日本語の可能性を極限まで追求する、「夢こそは現実の祖型」(「駅の根元」)であることを、路上生活者のもっとも低い視座で喝破する想像力なのだ。そのような想像力だけがこの反時代的な傑作を生み出しえたということ、この事実から出発して私たちは、長く複雑な思考の冒険に向かわなければならない。」(「〈死の殺害〉に抗する境界横断の文学」『新たなる死』書評 鵜飼哲 インパクション193 2013年1月)

 「堅固な哲学的考察」と呼ばれるだけの素養がこの私に備わっているかどうか疑問だが、確かに思想・哲学系の書籍に親しむことは多い。そんな「苦行」の中から見返すと、4行目の「反時代的な傑作」という形容の向こうには、ニーチェの『反時代的考察』がこよなくも墓碑銘を靡かせてくる。3行目には「路上生活者のもっとも低い視座」とあるが、これと同様の眼識をついひと月ほど前、現時点のフランスにも見出した。凱旋門近く、シャンゼリゼ通りなどの「激突」がスキャンダラスに報じられた「黄色いベスト」運動、日本では燃料税の値上げ問題ばかり伝えられるが、さる筋から入手した、かれらから代議士たちへの要求、その全42項目のトップにはこう記される。「ホームレスをゼロ名にせよ、いますぐ!」・・・・
 主著『全体主義の起源』などで知られる政治思想家ハンナ・アーレントも1968年の論集『暗い時代の人々』(Men in Dark Times)でブロッホを取り上げている。68年と言えば『ウェルギリウスの死』の日本語訳が出て2年後、今からちょうど50年前になる。私が今回「文芸という文学」と名づけた視点、問題設定にも関わり、こんなレジュメが提出された。少し長くなるが、2018年の結びにあたり一節を引用する。中に用いられるミュトスとロゴス、いずれもギリシア語に発するが、前者は伝説・伝承、後者は論理、あるいはその意味合いを強く伴った言葉や論説を意味する。(ちなみに新約聖書『ヨハネによる福音書』の冒頭では、「はじめに、ことばがいた」と提示される。この「ことば」の原語もまたロゴスである。)

「文学の洞察は、ある完全な宗教的世界観のなかでそれが奉仕するミュトス——この奉仕こそ真に芸術を正当化する——のような強制的性格を持つものではない。(中略)芸術も、またとくに文学も論理的表現が持つ強制力や明瞭さを備えてはいない。文学は自己を言語によって表現するが、それはロゴスの説得力を欠いているのである。ブロッホはおそらく第一次世界大戦との関連において初めて、「それでは何をなすべきか」という疑問に直面したのであろう。その後もこの疑問は、われわれの時代のあらゆる災厄によって、ますます強くかれの前に現われた。この疑問は再三再四、「雷鳴のように」かれを圧倒したのである。そしてかれの結論は、いやしくも有効であろうとするそれへの回答は、一方でミュトスが、他方ではロゴスが保持したような強制力を持たねばならないということであった。」(『暗い時代の人々』) ハンナ・アーレント 阿部齊訳 ちくま学芸文庫)

 第二次世界大戦が終結した1945年にブロッホの『ウェルギリウスの死』は発表された。そののち1951年まで彼は生きたが、アーレントが整理したようなミュトスとロゴスの両面にわたる課題に、この作品が十分な応答を与えたと彼自身は考えることができなかったようだ。彼は「文学」から離れる。そしてロゴスの、それも認識論と政治学、それらに裏付けられた行動に活路を見出そうとしたとある。しかし遺された作品の価値は言うまでもなく、作家自らが独占できるものではない。読者にして、もうひとりの作家でもある私にとって『ウェルギリウスの死』はなおも、内外、自他を貫いて鋭くも独自、特有の光を放ち続けている。

 それではみなさま、良い年をお迎えください。来年もよろしく。(2018年12月27日記)


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。