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2月 蟹面

 先週、富山に行った。到着してすぐに、今回いちばん楽しみにしていた店が、ご主人の体調不良のため休んでいることを友人が教えてくれた。「どうしますか?」と訊かれても、すぐに他の候補が浮かばない。しばらく考える。やっぱり冬の富山に来たのだから、香箱蟹やのどぐろを焼いたもので銀嶺立山を飲むのがいいだろう。
 はじめて香箱蟹を食べたのは金沢だった。その小ぶりの蟹の盛り付けが繊細で美しく、一瞬にして大好物になった。ただし、それなりの値段がする。ある年の師走、金沢から電車で新潟に移動したことがあって、熱燗に向いた酒をたくさん揃えていると聞きつけ、その蕎麦屋に行ったら、品書きの中に香箱蟹があった。もちろん注文する。美しい盛り付けも味も、前夜に金沢で食べたものと変わらないのに、値段は半分くらいだった。酒の酔いも手伝って、金沢で食べたものにぜんぜん負けないのに庶民的な値段で驚いたとご主人に伝えたら、目の前にある海は一緒ですからと笑われた。そんな記憶があったから、富山でも美味しい香箱蟹にありつけるに違いないと決めてかかった。
 ところが友人は「香箱蟹の季節は終わっているから、どうでしょうねぇ」と言った。香箱蟹は石川県で水揚げされるズワイガニの雌のことだという。ちなみに雄は石川県では加能蟹と呼ばれる。香箱蟹は11月初めの解禁日から漁が終わる12月末までと、食べられる期間はとても短いそうだ。どうやら厳密には、金沢で食べるもの以外は、同じ種類のズワイガニだとしても「香箱蟹」と呼ぶべきではないようなのだが、このまま話を続けることをお許しいただきたい。
 香箱蟹は諦めて、のどぐろを食べようと駅近くの居酒屋に入って。カウンターだけの小さな店だ。いちばん手前におでん鍋があった。よしよし。いっぺんに顔がほころぶ。横目でちらりと眺めると、澄んだ塩出汁の中に小ぶりな蟹の甲羅らしきものがぷかぷか浮かんでいる。品書きを確かめる。どうやら「蟹面」というものらしい。「カニヅラをください」と女将さんにお願いすると、「カニメンですね」と言われ赤面した。蟹面は甲羅の内側にほぐした身がぎっしりと詰められている。美味しい。これさえあれば、たとえ香箱蟹がなくても問題ない。
 翌晩は友人が別の居酒屋に連れていってくれた。L字型のカウンターの奥のほうに座ったら、目の前におでん鍋があり、蟹面が浮いている。昨夜のものよりもさらに美しい下拵えがしてあった。ただし、どうやらひとつしかないように見える。どうしても食べたかったからだろう。酒は何にするのか訊かれているのに、「カニメンをお願いします」と答えてしまってから我にかえる。あらためて、芋焼酎のお湯割りと蟹面と車麩と白滝を注文した。「とろろ昆布を添えますか?」という一言が、ああ、いま富山に居るのだなという気分を増幅してくれた。

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著者プロフィール

月刊連載『好物歳時記』毎月2日公開
icon_okamoto岡本 仁(おかもと ひとし)

ランドスケーププロダクツ
北海道生まれ。いろんな町をブラブラして、いつも何か食べてる人
と思われていますが、いちおう編集者です。
著者は『ぼくの鹿児島案内』『ぼくの香川案内』『果てしのない本の話』など。
雑誌『暮しの手帖』で「今日の買い物」という旅エッセイを連載中。