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大車輪4 -多様な、矛盾、より多彩- 『ウェルギリウスの死』における形容

 12月初めの週末、久しぶり京阪電車の特急で大阪に向かう。その往路で読んだ小さな思想誌のエッセイで、少し気になる一節に出会った。

c_nina35-1「われわれの感覚上の先入観、つまり矛盾律に媒介された感性は、例えば、「同じ一つの物について、同時にそれは硬くかつ軟らかい」と言えないように、われわれを支配する。しかし、こうした相反する二つの感覚を同時に有することはできないという「直感的証明」は、実はきわめて粗雑であり、それゆえ誤っているとさえ言える。(中略)身体の活動力能は、例えば、外部の或る物体による触発を硬くかつ軟らかいという感覚のもとで捉えることができる。正確に言うと、この感覚は、〈より多く硬く〉かつ〈より少なく柔らかい〉、あるいは〈より少なく硬く〉かつ〈より多く柔らかい〉という生成の度合から構成された変様である。これが、ニーチェが示す方向性である。」(「論理学を消尽すること̶̶ニーチェにおける〈矛盾-命令〉の彼岸」 江川隆男 『HAPAX』10 ニーチェ p.110より 2018.11 夜光社)

 「矛盾律」に媒介された感性に付きまとう、手の施しようもない粗雑さに、広く文学は、少なくともヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』は立ち向かい刃向かうのではないか。死を目前にしたローマの詩人、彼にとって浮かび漂う現世からの触発はとめどなく、彷徨う流動の最中に、「矛盾律」では捉えることのできない変様にも満たされ、活き活きと生成するものがそこには描き出された。作品は、同じドイツ語圏の思想家ニーチェの死から45年ののち、第二次世界戦争が終焉を迎えた1945年、世に送り出される。

 長篇をしめくくる、比較的短い第4部に目を通すだけでも、そのような表現は夥しくも鏤められる。そのいくつかをドイツ語の原文も添えてここに差し出し、繋ぎ合わせてみたい。(日本語訳は川村二郎氏の訳文を自分なりにアレンジしており、筆者よりはるかにドイツ語に習熟された方々からの鋭いご指摘もたまわりたい。なお、各引用の末尾に付した数字は、ドイツの出版社ズーアカンプSuhrkampの全集第4巻の頁を示している。)

 ウェルギリウスはまだ船に乗っている。ローマをめざして彼は帰還を果たし、そのまま死出の航路へ連なる。知己の名前も見失われたが、舳先にはリュサニアスという名の少年が立っている。詩人は・・・・

「想い出すすべもない世界のなかに埋没しながらも、想い出の世界にとどまる」
Ins Nicht-Erinnerte, dennoch bleibend im Erinnerten /420

 他界を目前に、追憶の中にとどめ置かれながらも、もはやその追憶が呼び醒まされることはない。想い出に身を沈めながらも想い出される術がない。彼は追憶と忘失、その狭間の領域にいる。しかもそれは・・・・

「感覚をなくした感覚という中間の領域に置かれた想い出」
diese Erinnerung im Zwischenzustand entsinnlichter Sinlichkeit /422

 であり、いまでは感覚も失われ、それでもなお感じ取られるものがある。詩人の現在はこのような感じることのできなくなった感覚によって貫かれる。しかも追憶をめぐって生じた同じ有様は感覚の次元にはとどまらず・・・・

「それ(想い出)はより高いレベルにあって、第二の無限性の知覚なき知覚の中に入り込んだ」
da sie auf höherer Ebene in das wissenlose Wissen der zweiten Unentlichkeit einging /422

 こうして想い出すことのできない想い出の中に彼はとどまる。余命幾許もない詩聖ウェルギリウスは、もはや感じることができないのにいまだ感じており(entsinnlichter Sinlichkeit)、知ることを喪失した知覚(das wissenlose Wissen)の次元へ移行した。是(Ja, Sein)と否(Nein, Nichts)を同時に備えるような中間の領野。そこには、これまでにもない第二の無限性(der zweiten Unentlichkeit)が拓かれる。永年手がけた叙事詩『アエネーイス』、詩人はこの畢生の大作の原稿を自らの手で焼却し処分することも考えた。一艘の小舟がそんな未遂の作者を載せて、全長も増しながら、こんな世界へ突き進む。舳先に立つ少年がいざなうその先にはいったい何が待つのか。辺りには捉え難い宵闇も一段と差し迫った・・・・

「夜めいてしかも夜ではないという物事の成り行きの中で」
da im Verlauf des nächtlich-unnächtlichen Geschehens /423
「来たるべき明白な一義性のため、過ぎ去りし多義的な事象はきっぱり断念せよとの命令がさらに厳しく下される。それでも少年がどれほど明白に、どれほど憧れを込めて来たるべき未来を指し示そうとも、ここには多義的なものしかなかった。」
schwerer noch der Befehl, zugunsten der künftigen Eindeutigkeit endgültig auf das vieldeutig Gewesene zu verzichten: mochte der Knabe noch so eindeutig und so sehnsüchtig nach dem Kommenden weisen, vieldeutig blieb es trozdem・・ /425

 海路の行く手には、抗う術もない一義性、すなわち統一(Eindeutigkeit)が待ち受ける。しかしながらその手前の、夜であって夜ではないと記される、いま、ここ、には、多義的な事象(das vieldeutig Gewesene)からの光が揺らめき満ちあふれた・・・・

「それ(暗くほのかに光る海と空の輝き)はかつて存在したもののありとあらゆる多様性と多義性の薄明かりによって隈なくひたされていた。」
es war von der ganzen Vielfalt und Vieldeutigkeit des Gewesenen durchschimmert /425

c_nina35-2多様なる、多義的な、それも矛盾ではなく、
いとも多彩を極め、生きとし生けるもの、
死を見失った死に命なき命は宿り、
妙趣の調べなき名曲も奏でられて、
言葉をなくした言葉は何事も語り伝え、
言葉を求めるまでもなく、
沈黙の口伝が満天を埋め尽くすと、
森羅万象が揺れ動いた、
広がりもない大海原の、めざす方なき、そのまた彼方へ。

 ここで無性にお腹が空いてきた。和服の僕は、今日も洋服の貴女とともに、宿命を払い除けたチャイナドレスの麗人を探し求める。深夜にも関わらず闇を衝き、もはや店でもなくなったというお店に駆け込み、パンではないという美味しいパンを手に取り、足を立て、腰を下ろし、すぐに唇を開いた。

 küssen・・・küssen・・・noch einmal・・・küssen・・・と


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。