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恭仁宮(くにきゅう)の遺構

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今月末には、今生天皇の譲位と皇太子殿下の即位となる「御大礼(ごたいれい)」が執り行われる。そんなことを意識していなかったけれど、先日とある会の催しに参加することになったので、そんなお話。

参加者は20名ほど、京都駅からバスに乗って京都府の南端にある木津川市に向かう。木津川市とは2007年に3つの町が合併してできた新しいまち。名の知れたところだと「けいはんな学研都市(関西文化学術研究都市)」も含まれており、京奈和自動車道やJR学研都市線の延伸などもあって、最近はベットタウンとして開発が進んでいるとも聞く。

僕は20歳の頃から京都市内で暮らしているが、生まれ育ちは同じく京都府南部にある宇治市、そんなこともあってこの辺りは比較的馴染みもあったが、奈良県に隣接していることもあって素通りする地域というのが正直なところ。今回の催しは木津川市観光協会によるアテンドということもあったので、じっくりとこの地域で時間を過ごすことになった。

ツアーのようにスポットを回って説明を受けるスタイルで、特に印象に残っているのが「恭仁宮跡(くにきゅうせき)」。僕はとくに歴史好きということではないけれど、今住んでいる地域の祭事などに関わるようになってからは備忘録程度に神社などを調べるようになった。それ以来だろうか、千年以上の時代を経て伝承される史実にロマンを感じることも多い。(冒頭写真は恭仁宮大極殿跡の礎石)

恭仁宮とは、奈良時代(710年から794年)の後期、平城京からわずか10数kmほど北東、木津川を越え三方を山に囲まれた瓶原(みかのはら)と呼ばれる盆地に造設された「宮(みや:天皇家の住まいや政治を執り行う建物)」。

当時、聖武天皇が740年に都を遷し「恭仁京」がはじまったとされているが、平城京→恭仁京→難波京→紫香楽京→平城京とわずか10年ほどの短い期間に点々と遷都が行われる超混乱の時代でもあったようです。そんな中、恭仁京は5年弱の期間、奈良の大仏がある東大寺をはじめとする全国の国分寺建立や、日本における土地と税の仕組みのはじまりとされる「墾田永年私財法」など非常に影響力があったとされている。

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恭仁宮跡は、後に山城国分寺となったとされている。(写真は山城国分寺七重塔跡の礎石)

少し整理しておくと、聖武天皇は晩年に譲位を行い、その娘が孝謙天皇となっており、756年没したとされる。その後、桓武天皇の時代、平城京から長岡京となって、794年には平安京がはじまる。

今、僕が住んでいる京都・太秦とも深いつながりがあって、当時の京都は渡来人の末裔とされる秦氏にて都市開発が進んでおり、織物など手工芸やさまざまな産業が盛んな主要都市としてすでに機能していたと勝手に妄想しています♪(備忘録としてまとめた地元の歴史

 


著者プロフィール

月刊『駅、バス停、道すがら何処でも誰かに出会う街』毎月1日公開
prof_sahara佐原 誠

京都府宇治市に生まれて、今は京都市内の太秦と呼ばれる街に住んでいます。
「何やってる人?」と言われることはよくありますが、裏側での仕事も多く、何事も露わにしておらず、そんなイメージになっているんだと思います。ちょっとした乗りで2014年9月からランニングを始めることになりました。
最近、情報整理する上で一度アウトプットするのも良いかと思ってきたので、note と呼ばれるブログをたまに投稿しています。
https://note.mu/saharamakoto