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風の薔薇 11
『去年マリエンバートで』 記憶の迷宮をさまよう人々

c_tk11-1 回を重ねて11回目の『風の薔薇』はヌーヴェルヴァーグ探索に戻り、まだ取り上げていなかったアラン・レネに焦点を当てたい。今回は『去年マリエンバードで』を選んでみた。レネ監督のフィルモグラフィーには名作の数々が名を連ねているが、この作品は難解であることで知られている。また、映像の美しさでも並ぶものなし(これは誇張かもしれないが)という評価を得ている。
 筆者が初めてこの作品を鑑賞したのは、十代だったと思う。何しろ評判が高かった上に、脚本を書いたのはヌーヴォーロマンの騎手と呼ばれたアラン・ロブ-グリエだ。期待に胸ふくらませてアテネ・フランセ文化センターに足を運んだ覚えがある。
 確かに美しい映像は、評判通りで惚れ惚れした。主演女優のデルフィーヌ・セリグの美貌とミステリアスな気品にも魅せられた。重厚な音楽も雰囲気を盛り上げていた。ただ、ストーリーが分かりにくい。過去と現在が交錯し、いま観ているのが、去年のことなのか、今年のことなのか、分からなくなってくる。
 こんな風に書くと、観てみようかなあ、と思っていた方たちの意欲を削いでしまうかもしれない。しかし、その一筋縄では行かないところが、この作品の魅力でもあるのだから、ここはひとつ辛抱して、せめてこのコラムだけでもお付き合いいただきたいものである。
 さて『去年マリエンバートで』の脚本を書いたフランスの小説家ロブ-グリエは、シナリオ執筆の際に黒沢明の映画『羅生門』にインスパイアされたと、後に語っている。『羅生門』は黒沢監督の代表作の一つで、1951年のヴェネツィア映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞している。更に、この映画には原作が存在し、それは芥川龍之介の『藪の中』なのである。
 芥川の小説は今昔物語をベースにしている。侍が森の中で殺害され、目撃者、侍の妻、森にいた男が尋問される。ところが、その証言は見事に食い違っている。人は、自分の都合のいいように言葉を紡ぐものである。したがって、真実はどこにある、と考えるとき、その答えが見つかるだろうか、というテーマが扱われている。
 映画『羅生門』では、『藪の中』を踏まえ、侍とその妻が森の中で身分の低い男と出会い、三角関係に発展する。最後に侍は殺されてしまうのだが、その顛末が目撃者も交え四者四様の解釈を施されて語られ、結局、真実はわからない。
 さて、『羅生門』に触発されてシナリオが書かれた『マリエンバートで』のあらすじはこうである。男が城のような豪華なホテルを訪れる。そこで、去年も会った女に再会する。男は、一年後にまた会いましょう、そうしたら私はあなたと出て行くわ、と持ち掛けた女との約束を守って現れたのだ。しかし女は、そんなこと言った覚えはない。記憶がない。と言い張る。男は女に思い出させようと色々な話をたたみかける。しかし女は、疲れている、覚えていない、と主張し、話はかみ合わない。しかし段々と女にも、男の話のとおりだったような気がしてくる。時折、女の夫が姿を現す。どうやら夫は、全てを知っているらしい。
 このようにストーリーは曖昧だが、モノクロの映像は飛び切り美しい。男と女の再会の舞台となるドイツの城館の端正な佇まいには、うっとりとしてしまう。シンメトリーな構造は威厳を湛えているが、外壁が白を基調としているので、優しさも感じられる。
c_tk11-3 そして、何より庭園の美しさには目を奪われる。主人公の男と女を始め、城館に滞在するハイソサエティの人々が庭を散歩しているさまは、夢のようだ。幾何学的に植えられた木々の間を漂うがごとく歩く男女は、まるでキリコの絵画から抜け出て来たようだ。
 この作品の中には、このような耽美的なシーンが、あちこちに見られる。物語の冒頭部分、建物の内部がゆっくりと映し出される。パイプオルガンの奏でる厳かな音楽をバックに、独白のようなナレーションが流れる。「豪華で陰鬱な館。果てしなく続く廊下。敷石の床を踏む」こう言った言葉が、何度も繰り返される。脈絡があって、ないようなフレーズなので、意味を捉えようとすると、はぐらかされる。
 『マリエンバート』って、あの眠くなる映画?、学生時代にこんなことを言っていた友達がいた。確かに台詞に意味を見出そうとしているうちに睡魔に襲われる、こんな経験を私もしたものだ。というか『マリエンバート』と言えば、睡眠導入剤のような映画、という人たちがいるみたいだ。
 一度ならず、この映画を観たが、ふっと気を抜くと眠くなるというのは、わかる。しかし、画面が時々真っ白になったり、人の動きがパタッと止まったり、そんな緩急のリズムに酔いしれているうちに、気づいたら映画が終わっていた、という幸せな経験もした。
 脚本を書いたロブ-グリエの唱える文学は、人の意識を素直に小説にする、というものだ。「意識の流れを描く」などとも言われた(これはジョイス以来の文学的潮流とも言えるが)。人間の意識には、まるで時系列など無視して、色々な思いが浮かんでは消えていくものだ。それを言語化したものがロブ-グリエの小説である。レネの『去年マリエンバートで』はその小説論を、忠実に映像に定着したように見える。
 こんなことが可能なんだな、と心から感心する。ロブ-グリエの書いたシナリオには、きっちりと男と女とその夫が書き込まれていたそうだ。そのセリフも、決して行き当たりばったりなどではなく、全て構築的に考えられているという。
 しかし、どんなに人間の心に浮かぶ思いを言葉としてしっかり捉えようとしても空しい。言葉が発せられた途端に、それは真実味を失ってしまう。語る者の本当の意図などというものは存在せず、あるのはその場限りの誠実さだ。
 長くなってしまったが『去年マリエンバートで』のテーマは、記憶を忠実に語ることが可能なのか、ということだろう。思い出を語ろうとする時、常に解釈のフィルターが働き、真実の記憶を言語化することはかなわない。そもそも、本当の記憶など、存在するのだろうか。
 何だか難しい表現になってしまった。つまり、思い出は、思い出そうとするその時々の気持ちで変わる。また、思い出す人によっても変わってしまう。こうなると、思い出、ひいては気持ちを言葉で伝えることは可能なのか、という問題にも突き当たりそうである。
 あまり考えると、分からなくなってしまう。そう、人生そのものが偉大な疑問なのだから。
c_tk11-2 それでも『去年マリエンバートで』には他の楽しみがたくさんある。登場人物たちのゆっくりとエレガントな動き。まるでダンスのようだ。また、人々の低いトーンの話し声は流れるようで、耳に心地よい。
 そして主人公のデルフィーヌ・セリグの来ているシャネルによるドレスの数々の素晴らしさ。動きにつれて生まれる襞の見事なこと。シャネル社が2000年代に入って、この映画のフィルム修復に出資したそうだが、それも頷けることである。
 そのドレスを着こなすデルフィーヌ・セリグの、美しさを突き抜けた独特の雰囲気には、魅せられっぱなしである。彼女はマルグリット・デュラスの『インディア・ソング』でも主役を演じているが、気怠いヒロインを演じたら、右に出るものはない、と思われる。私生活では随分気さくなおばさん、という感じの人だと聞いたが、案外そんなものかもしれない。『インディア・ソング』はいつか取り上げたいと思っている。
 記憶の迷宮を巡る旅へようこそ!そして、目くるめく美しいシーンと洗練されたドレスをご堪能あれ!!
 今月は、美味しいものがちっとも登場しなかったが、こういう月もあると、ご容赦ください。でも、映像を目で味わうとき、至福の時が訪れる。きっと満足いただけると思う。

 


著者プロフィール

月刊『La rose des vents「風の薔薇」』毎月3日公開

田村 恵子 (青木 恵都)

東京生まれ。
文学、映画とパンをこよなく愛する。アポリネール、ヌーヴェル・ヴァーグ、ハード系パンが好きです。最近は夫が立ち上げたタムラ堂刊行の『夜の木』などを青木恵都という名で翻訳。
タムラ堂