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大車輪6 -二人の友へ- 『ウェルギリウスの死』第3部より

 前々回はヘルマン・ブロッホの長篇、その第4部「灝気——帰郷」から、絶え間なく相反するものを包摂しながら対象を描き続ける、この作品独自のダイナミズムを垣間見た。前回は第2部「火——下降」から、詩作と現実の狭間で引き裂かれた詩人の、死を目前にした苦悩の意志を見届けた。自作の詩『アエネーイス』、行李に入った未完成の原稿を焼却せねばと。
 今月も同じ決意は引き継がれ、『ウェルギリウスの死』はそのまま第3部「地——期待」(Erde—Erwaltung)へ進む。いよいよ詩人はイタリア半島の先端部に上陸した。伝承によれば、旅先のメガラで熱病に罹患したウェルギリウスは海路ローマをめざしたが、アドリア海に面した港湾都市ブルンディシウムで世を去った。(冒頭の「灝気(こうき)」は川村二郎訳によるが、「広々と澄み渡った大気」の意。デジタル大辞泉より)

 4つの人格が交錯する。ただし、海路では舳先に立ち、王宮へもいざない、第4部ではまた黄泉路の先導も務める少年リュサニアスが当初は姿を見せない。ブルンディシウムに置かれた王宮の朝、ウェルギリウスには一人の奴隷(Sklave)が仕える。彼は二人の友の来訪を告げる。ともに同じ文学サークルの詩人であった。

「プロティウス・トゥッカさまとルキウス・ワリウスさまが、ローマからご挨拶に見えているのでございます・・・・陛下にお目通りする前に、御前さまにお目にかかりたいと申されてでございます・・・・」(189頁)

 陛下とはアウグストゥス。友を見舞ったプロティウスは、同じ奴隷に少年を連れて来いと命じるものの、「御前、この館にはどこにも少年はおりませんが」とその存在すらも認めようとしない。つづいて友の病状を思いやり、まだ来ない医師への督促を命じると、下人はいったん所払いとなる。あれは少年の「代理人」かと、ウェルギリウスには疑念も生じる。

 こうして朋友にして3名の詩人が集った。そこでウェルギリウスは『アエネーイス』の焼却を依頼する。それにしても、彼が自らの手で事を進められなかったのは、病によるものか、それとも、どうしても自分では手が下せないという、それ以外の制動がかかったのか。

 現実をとらえきれない詩篇、その意味を見出すことができない空虚な作品、あとに残されるのは言葉の装飾品にすぎない・・・・作者ウェルギリウスの懊悩は「詩(Vers, Verse)」あるいは「詩作(Dichtung)」、「美(Schöne)」、「現実(Wirklichkeit)」、さらには「真実(Wahrheit)」、「愛(Liebe)」を加えた五重奏、あるいは六重奏となって滔々と展開される。たとえば、

「真の同意にふさわしいのは、いつでもただ詩の意味するもの、詩の背後にたかまる到達しがたい十全の現実ばかりなのだ」それゆえ「詩をただ詩そのものとして、それが意味する現実には一顧も払うことなしにほめたたえる者は、生み出す力を生み出された結果と混同している」(198頁)

 「生み出す力(Erzeugende)」は現実に宿り、そこから「生み出された結果(Erzeugte)」こそが詩だと読み取られる。これが反転するとき虚無と呪縛が取り付く。いわく、

「単なる美のために生ずる一切は、むなしい無にとらわれたまま重い呪いを負うていなければならないのだ」(203頁)

 だから『アエネーイス』の刊行は見送りたい。何より原稿そのものを処分してほしい。それにしても、生成の力を貯えた現実とはいったい何だろうか。

「法則はただひとつしか存在しない、心の法則しか存在しないのだ! 現実とは、愛の現実よりほかにないのだ!(Es gibt nur ein Gesetz, das Gesetz des Herzens! die Wirklichkeit, die Wirklichkeit der Liebe! )」(201頁)

 この愛が、エロスが、力を見せつけるとき、現実は死とも無縁ではいられなくなる。

「愛の現実と死の現実、それはひとつのものだ(Liebeswirklichkeit, Todeswirklichkeit, ein und das nämliche)」(212頁)

 こうして現実の核心において愛と死を切り結び、そこから「真実」が定義される。ウェルギリウスは二人の友を前に告白し、断定する。

「おそらく究極の現実をあらわすには、そもそもいかなることばも存在しないのだろう・・・・わたしは詩を作った、軽率なことばを・・・・わたしはそのことばが現実だと思っていたのだが、実はそれは美だった・・・・詩作は薄明からもたらされる・・・・われわれがいとなみ作りだす一切は薄明から生じる・・・・だが現実を告知する声は、さらに深い盲目を必要とする、あたかも冷ややかな影の国の声ででもあるかのように・・・・さらに深くてさらに高く、そう、さらに暗くて、しかもさらに明るいのが真実なのだ(vielleicht gibt es überhaupt keine Worte für letzte Wirklichkeit… ich habe gedichtet, voreilige Worte… ich dachte, es sei Wirklichkeit, und es war Schönheit… Dichtung entstammt der Dämmerung… alles was wir tun und schaffen entstammt der Dämmerung… doch die kündende Stimme der Wirklichkeit bedarf einer tieferen Blindheit, als es die des kalten Schattenreiches ist… tiefer und höher, ja, noch dunkeler und trotzdem heller ist die Wahrheit.)」(212頁)

 詩は薄明から生じる。それを生み出す現実はさらに深い盲目に影、暗闇を求める。前回引用した「人間の生活(現実)とは影像の祝福と影像の呪いのもとにいとなまれる」(第2部 60頁)というテーゼがここでも堅持される。その中に見出されるべき「真実」はより深く、より高いものとなり、より暗く、より明るいものをめざす。『大車輪4』で観察した、どこまでも相反するというあの形容がここにも見届けられる。
 このとき、3人の詩家のやりとりには一度限りの異変が生じる。彼らの対話の中に、突如として、これまでには現われたこともないべつの話者が闖入する。姿も見せず、複数の女たちの声が射し込まれる。ことばだけが伝わる。

「「真実・・・・その怖ろしい狂気・・・・真実にこもる災厄」。女たちの声、それはあらわだった、彼らが告げるべきだった真実のようにあらわだった、しかもそれは災厄だったのだ」
(212~213頁)

 声の主は「トロイアの女たち」だろうか、それとも「バッコスの信女」?・・・・真実の中にこもる狂気、という女たちの叫喚からは、『ウェルギリウスの死』のおよそ四半世紀後、1961年に世に出たフーコーの大著『狂気の歴史』がすぐに連想される。
 ウェルギリウスは二人の友に念を押す。くれぐれもアエネーイスの焼却を求めた。だが、懇願はプロティウスによって先延ばしされ、ひいては却下されていく。ルキウスとともに辞去するとき、彼はこう言い残した。

「種にするための穀物まで食いつくしてしまう百姓を、穀つぶしというのだぞ(ein Bauer, der Saatgut verfüttert und vergeudet, taugt nichts.)」(214頁)

 「種」は先代から生み出された結晶だが、それとともに新たに穀物を生み出す力の源泉となる。プロティウスはこの生み出す力を、ウェルギリウスの主張する「現実」ではなく、その友の作り上げた「詩」に求めた。やはり根底から認識の向きが反転している。そうなると行く手には、虚無と呪縛が手ぐすね引いている。(今回も引用のページ数は1966年に刊行された集英社の世界文学全集7のものですが、訳文の一部に手を加えたところがあります。)


 
 
 写真は、パリ・モンマルトルの街路。筆者撮影。

                


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆。
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。