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風の薔薇 12
 5時から7時までのクレオ
   夏至のパリ、偶然の出会い

 
 ヌーヴェル・ヴァーグの監督巡りの旅も、いよいよ12回目となるな、と思っていた矢先、唯一の女性監督アニエス・ヴァルダの訃報が届いた。2019年3月29日に乳がんのため死亡とのこと。肝っ玉母さんのような印象もあったのだが、みんなから愛されていた。
 今年のカンヌ映画祭のオフィシャルポスターも、男性の背中に乗ったユーモラスなポジションでカメラを覗くアニエスが使われている。これはもう、アニエスを取り上げるしかない、さてどの作品を?と考えて、やはり彼女の国際的名声を高めた『5時から7時までのクレオ』だろうと思った。
c_tk11-1  この映画はアニエス・ヴァルダの第二作目で、彼女がプロデューサーのボールガールに声をかけられたのがきっかけだった。既にゴダールの『勝手にしやがれ』を製作していた彼は、1960年代の初め、アニエスに「モノクロで3200万フランくらいの予算の映画を撮ってみないか」と打診したそうである。
 是非撮ってみたい、と思ったアニエスは、この条件ならパリで撮影し、90分くらいの作品が相応しい、と判断したという。この予算がどのくらいのものかと言うと、普通の長編映画の七分の一弱というのだから驚く。しかし、チャンスは絶対逃したくないのがアニエス。緻密な計画を立て、連日5時半から撮影を始め、ほぼ2週間で完成したというのだから見事だ。
 主演には、後にパートナーとなるジャック・ドゥミの作品『ローラ』(1961) に踊り子役で出演していたコリーヌ・マルシャンを大抜擢。若く美しい歌手を演じた彼女は、一躍世界の注目を浴びる。
 『5時から7時までのクレオ』は興行的にも成功し、次の作品『幸福』でアニエスはベルリン国際映画祭の銀熊賞を手にする。女性監督など殆どいなかった時代に、特筆すべき快挙である。
 では、簡単に『クレオ』のストーリーをたどってみよう。クレオは新進ポップス歌手。既にシングルを3枚リリースしている。彼女の周囲には付き人の女性で心優しいアンジェル、恋人のジョゼ、愉快な作曲家のボブなど、素敵な人々がいる。ところが体調が優れず、今夜、病院の精密検査の結果が明らかになる。不安に駆られた彼女は、評判のタロット占い師を訪れる。不吉な話を聞かされ落胆するクレオ。
 家に戻り歌のレッスンを受けるが、心ここにあらず。恋人の不意打ちのような訪問にもイライラする。一人になって頭を冷やそうと出かけるが沈んだ気持ちは相変わらず。思いついて訪れた公園で、話しかけてきた休暇中の兵士。彼も今晩、戦地アルジェリアに向けて出発すると言う。
 この見知らぬ青年と話しているうちに、クレオの張りつめた気持ちはほぐれて行くのだった。
 以上があらすじだが、アニエスはこの映画のテーマは恐怖だと語っている。1960年当時、癌の脅威がパリを覆っていたと述懐するアニエス。日本でもそうだったと思うが、癌イコール死のような恐れられ方だったのではないだろうか。今でこそ、治療法が進歩して、癌は治る可能性のある病気となっているが、60年も前のことだ。人々の怖がり方は如何ばかりであっただろうか。
 そしてもうひとつ、フランス人にとっての脅威は戦争だっただろう。アルジェリア戦争は泥沼と化し、戦場に赴く若者にとって死は、すぐそこにあるものだった。
 テーマは恐怖だが、パリが舞台で、若く美しい女性が90分間歩き回り、目にするものを描く。アニエスの計画は明確だったようだ。限られた予算だから、機材も制限され、クレーンを使ったシーンは僅かだったという。
 そんな、ダメなことだらけのような条件で撮られた『クレオ』は、プロデューサーらの都合で、撮影開始が延びに延び、夏至の6月21日になってしまったと言う。アニエスは「これはすごいチャンス」と躍り上がったという。なぜなら、夏至と言えば、一年で一番昼間の長い日だ。しかもフランスは夏時間を採用しているから、夜の9時頃まで明るい。自然光で撮影するにはもってこいの日なのだ。
 どこまでアニエスは運が強いのだろう。1960年当時、写真を学ぶ女子学生など少ない時代にパリで写真を勉強し、後に映画に転向する。たぐいまれな映像センスを生かした処女作『ポワント・クルトゥ』は批評家の間で大好評だった。
 そしてボールガールに注目され、映画監督としての地歩を固める。極めて低予算の条件は厳しかったが、巡ってきたチャンスは逃さない。そして抜群のセンスの良さで、魅力的な映像と心地よいテンポのお洒落な長編を世に送り出した。
 既に述べたように、テーマは死の恐怖だが、重い心を抱えてヒロインが歩き回るパリの風景は、初夏の光を浴びて実に美しい。この作品の中で、ほぼ90分間、ヒロインはリアルタイムでパリを移動する。そのリズミカルな時の経過が、観る者の心の中に入り込み、私たちの気持ちもテンポを刻む。
 冒頭、唯一のカラーシーンであるタロット占い師の家を出ると、明るいリヴォリ通りの活気に包まれる。カフェに入って付き人のアンジェルとコーヒーで一服。悲しい気持ちのクレオを、カフェのギャルソンや常連客が慰める。ここまで来ると、観ている私たちは、悲しいはずの映画なのに、パリの街や人々の日常の営みの楽しさに心奪われる。
 クレオとアンジェルの乗るタクシーがステキだ。シトロエンのIDという車種だそうだ。そして運転手は、なかなか気の強い女性で、このあたりも、女性監督ならではの心配りなのだろうか。運転なんて全然怖くないし、大好き。変なお客がいて、多少危険な目にあっても、すぐに仲間が駆けつけてくれるから大丈夫、と語っているのを聞くと、アニエスの働く女性にたいする優しい視線を感じる。
 タクシーはポンヌフを渡って左岸に入り、モンパルナスのクレオの家へ到着する。ずっと移動する二人の人物をカメラは追うのだが、滑らかなタッチで心愉しい散歩のようだ。
 その後、歌のレッスンや恋人との短い逢瀬にも気の晴れないクレオは家を出て、友達のドロテに会いに行く。
c_tk11-1 彼女の運転する車でボーイフレンドが映写技師をしている映画館にフィルムを届ける。ここで、クレオとドロテは、ゴダールやアンナ・カリーナがカメオ出演する短編映画を観て大いに楽しむ。(これはヌーヴェル・ヴァーグのメンバーからのちょっとした目配せで、すごく楽しい場面だ)
 まだ沈んだ気持ちのクレオは、ドロテの勧めでパリの南のはずれのモンスーリ公園へひとり向かうことにする。ここでも夏至の陽光があらゆるところに溢れていて、眩い光景が繰り広げられる。
 公園の中には滝が流れていて、暑い夏至のパリで涼むには格好の休憩場所となっている。滝の前で佇むクレオに話しかける青年アントワーヌ。彼こそは、クレオの沈みがちな気持ちに耳を傾けてくれる人物なのだ。
 最初は、お喋りでうるさい人だわ。全然知らない人なのに、いろんなこと聞いてきて。と思っていたクレオの心が段々と開かれていく。バスに乗って一緒に病院に行こう。そして、お医者さんに検査の結果を聞こう。その方が、心配しながら知らせを待っているよりいいよ。と提案するアントワーヌに誘われてバスに飛び乗るクレオ。
 タクシーよりバスで行く方が全然楽しいよ。ほら、病院に行く67番のバスが来た!とアントワーヌが言う通り、道中の景色は、観客の私たちをも魅了する。ここでもパリの街は明るく、人々の営みが車窓から垣間見えてくる。路から撮ったバスの遠景、そしてバスの中から撮影した人々の表情には、現在を生きるパリの住民の息遣いが感じられる。
 アントワーヌに促されて病院の庭で医師を待っていると、何という偶然!探していたヴァリノ医師が車で通りかかる。クレオは既に気持ちがふっ切れ、何だか幸せな気分になってきたわ、とアントワーヌに告げる。心から心配してくれて、気持ちを分かってくれる人に出会えた時、人は、どんなに暗い気持ちを抱えていても幸せになれる、というアニエスのメッセージが聞こえてくるようだ。
 それは、どんなにお金がなくても映画を撮りたいという気持ちを捨てずに、前を向いていたアニエスの気持ちをも映しているに違いない。希望あるところに救いはある、とは陳腐な表現だが、真実なのだろう。だから、『5時から7時までのクレオ』を観終わったとき、私たちの心に去来するのは、人生で強く願ったものは手に入る、そして人生は楽しいという教えだ。
 クレオは、アントワーヌの助言を得て、捨て鉢な気持ちを乗り越えて幸せな気分に浸ることができた。普段なら、聞く耳を持たなかったかもしれぬ見知らぬ人のお喋りに耳を傾けた時、沈んだ心から抜け出せたのだ。本当に何かを求めるとき、見過ごしがちな導き手が見えてくる。心から願うこと、今日ちょっと忘れがちな大切なことを、この映画は思い出させてくれる。
 また、この作品を通してずっと感じられるのは、アニエスの優しさだ。登場する全ての人々に対する彼女の愛情が全編通して溢れている。アニエスはずっと夫のジャック・ドゥミに対する敬意と愛を持ち続けた人だ。その気持ちの深さ、そして周りの人々に対して思いやりを忘れない態度は、一貫して作品の中にも流れている。
 それも、アニエスが映画という大好きな仕事をずっと続けられる幸せな人生を送ったからこその、歓びに満ちた生き方の結実なのだろう。アニエス、天国でも素晴らしい作品を創ってくださいね!

 


著者プロフィール

月刊『La rose des vents「風の薔薇」』毎月3日公開

田村 恵子 (青木 恵都)

東京生まれ。
文学、映画とパンをこよなく愛する。アポリネール、ヌーヴェル・ヴァーグ、ハード系パンが好きです。最近は夫が立ち上げたタムラ堂刊行の『夜の木』などを青木恵都という名で翻訳。
タムラ堂