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大車輪7 -奴隷の祈り- 『ウェルギリウスの死』第3部より

 紀元前70年、ローマの詩人ウェルギリウスが生まれた。そして紀元前19年、51歳で世を去った。イタリア南部の港町、ブルンディシウム。
 ヘルマン・ブロッホの長篇、第3部の冒頭で彼を基軸に4人の人格が交錯することは申し上げた。王宮で迎える朝、4人は2対をなす。まず1つは詩人の友プロティウスとルキウス、もう1つは少年リュサニアスと奴隷(彼だけは名前を持たない)。当初、少年の姿は見えず、奴隷もすぐに退出する。二人の旧知だけを前にウェルギリウスは『アエネーイス』の焼却を頼むが、申し出は一蹴された。

「いささか手荒に扉が閉じられ、戸口の外では足音がしだいに遠くなって行った。」(214頁)

 気分を害したのか、朋友は彼を置き去りにする。それでも独りにはならなかった。姿を消していたはずの少年が、彼らの退出を待ち受けたように再現する。ここから少年と奴隷が新たな告知と祈りを繰り広げる。

「その一部始終は、ほかでもないリュサニアスの眼の前で経過したのだ、なぜなら少年は——驚いたことに、といっても不意を打たれたという感じではなかったが——夜のあいだと寸分変わらず、今もなお安楽椅子に腰を下ろしていたのだから。安楽椅子がいきなり二人掛けになるなどということがありえたろうか? つい今しがたまで、プロティウスもそこに腰をおろしていたのだ。」(215頁)

 少年はこれより奏でられる交響詩の序曲とも言うべき一文を、死の床に就く詩人に語り聞かせた。

「将軍にも、国王にも、いえ、詩(Vers)にさえも、永劫の摂理にゆだねられた時を通じてみちびく力はありません。その時の中でたえずみちびきつづけながら永遠に主宰の役をつかさどるのは、清らかな心が断固たる意志をもっておこなう行為です。」(216~217頁)

 時をこえて永遠に司るもの、その清らかな心が宿す、揺るぎない意志と営み・・・・紀元前19年、この物語の舞台をイタリア・ローマのみならず地中海世界に拡大すれば、少年の序言が意味するところは自ずと見透かされてくる。
 奴隷もまたこの直後に再現する。どこから入室したのかわからないが、「無敵の日の神(Unbesieglich Sonne)」というかすかな叫びを伴って、彼は再来した。この神はユピテル、真昼の神、太陽の神だが、じつは唯一でも全能でもない。父である「時の神」クロノスによって呪縛される。しかし呪いの解かれる時が訪れると奴隷は告げた・・・・「神々の族(うから)のうちに、処女の生んだ子が現われるとき消えさるのです。それは謀反を企てぬ最初の子です。子は父とひとつになり、父は子とひとつになる、父と子は精霊において合一し、こうして三者は永遠に一体となるのです。」(217頁)

 この言葉がいったい何を、誰のことを身ごもるのかは明らかだろう。「三者は永遠に一体」とは「三位一体」。そこでウェルギリウスは奴隷に問い返す。ただし、「謀反を企てぬ最初の子」についてではなく、いまそのことを語った相手の素性を確かめる。

「おまえはシリアびとか? ペルシャの生まれか?」
「まだ幼かったときに、アジアから連れてこられたのでございます。」(217頁)

 シリア、ペルシャのいずれでもなく、アジアから引き立てられたという奴隷。ウェルギリウスは彼の信仰にも問いを向ける。

「おまえはだれだ?」
「アウグストゥスさまのお館にお仕えする奴隷でございます。御前様、アウグストゥスさまに神々のご加護がありますように」
「だれからその信仰を教わったのだ?」
「奴隷は主(あるじ)の神々を敬うものです。」
「おまえの親たちの信仰は?」
「わたくしの父は奴隷として十字架にかけられて死にました。母とは生き別れのまま、消息もさだかではありません。」(218頁)

 問答が西暦紀元の前と後にまたがり怪奇にも満ちた錯綜を描く。奴隷の答える複数形の「神々(die Götter)」とはギリシア・ローマの神々にほかならず、だが詩人はそれとは別に、彼の両親の信仰を尋ねた。すると相手は答えを逸らし、母は行方知れず、父は「十字架」にかけられたという。不意に浮かび上がった「父」と「子」、そのいずれかがキリストかと問うまでもなく・・・・奴隷と少年は交互に消失と再現を繰り返し、頻度も高まる。二つの声が調和をとげて、つまるところはただの一者かもしれなかった。

 奴隷はやがて絡み合う二つの潮流にも話を進めた。ヘブライズムとヘレニズム、広くヨーロッパを形成する、双璧の思考の根源にも迫らんとする。たとえば、暗にキリストの到来をめぐっては、

「ひたすらに仕えるべくさだめられた者には、地上のいささかな痕跡もとどまらぬように。その人みずからは何ひとつ所有しない、名もなければ、意志ももたない。子としての境遇へ押しもどされて、運命すらももたないのです。けれども、あらわになり、所有を失えば失うほど、直接にとらえられるものはいよいよその人の手に帰する。裸のまま鎖を引きずっている者にのみ、つつましやかに恩寵を受けようとする純朴な思いがわき出るのです。その人のみがふたたび泣くすべを知っている、奇蹟は彼のために貯えておかれる、幼児にまで引き下げられたとき、彼はだれよりも先に光を眼にするのです。」(221頁)

 それとともにギリシアからの流出にもいまだ途切れがないことを告げ知らせる。

「人間性がほとばしり出るとき、それはいつも裸形のままなのです。その発端も裸形なら終末も裸形、あらわな傷ついた皮膚を義務の鎖がこすりひき剝く(ひきさく)のです。けれど裸形といえば巨人さえもそうなので、彼の英雄的な勇気とは裸形のいいにほかならない。彼が父なる神に立ちむかったのは、赤手空拳のしわざでした。あらわなまま熱くもえる双手の中に奪いとった火をつかんで、彼は地上に降り立ったのです。」(221頁)

 巨人、タイタン。神話の中で、父ゼウスの火をつかんで地上に降り立つ者はプロメテウスだとしても、こののち現実に降臨するのは、全く異なる神の子かもしれない。奴隷と少年の声はいちだんと奇妙な調和を深める。少年はウェルギリウスの歴史的使命にも言及した。

「あなたは永遠の先導者なのです、みずからは目的地に到達なさらない、案内者なのです。不死の名誉をあなたは得られるでしょう、先導者として不死のうちに入られるでしょう、イマダナオ、シカモスデニ、ソレガスベテノ時代ノ転回期ニオケルアナタノ運命ナノデス。(du bist der ewige Führer, der selber das Ziel nicht erreicht: unsterblich wirst du sein, unsterblich als Führer, noch nicht und doch schon, dein Los an jeder Wende der Zeit.)」(222頁)

 事実、死後のウェルギリウスはキリスト教徒から「聖人」にも目され、ダンテの『神曲』では彼を地獄巡りへいざなうという「先導者」も務めることになる。さらに少年は「星」に託して、自ら言うところの「転回期」、歴史的な出来事の到来を物語る。

「それから少年がこういって手をあげた。「ごらんなさいあの星を、道しるべの星を。」
 陽にあまねく照らされた深紅の空に、夜の星がひとつ出ていた、ほのかな光をはなちながら、その星は東方に移って行った。」(222頁)

 この直後、奴隷は床にひれ伏した。そして長い祈りの言葉を捧げる・・・・祈りの中で彼は、少年の語った東方へ向かう星が「幼児のごとく(kindgleich)」出現するという・・・・

「かしこき使命の反照のうちにおんみの光耀より幼児のごとく星は現われいで、おんみの命のままに、かつておんみのとどまりし所、夜のひきあけとともにふたたびとどまりたもうならん所へと立ち帰り行く。」(223頁)

 こうして忍び寄るがごときイエスの影をなぞりながら、奴隷は自分自身も定義づけた。

「おんみはわれを死のために創りたまえり、われは死の形象(かたち)なり。」(223頁)

 死の造形に自らを繋ぎ止め、奴隷は現われるべき星がたどる道筋とその生涯を予言する。

「さて星の降り来る(くだりきたる)とき、おお名もなきものの中にもすぐれて名なき神よ、おんみが名を呼ばわりてそをわがものとなし、地上をさすらい、地上に死するとき——地上の眼には権化の姿を現じ、その姿のままにふたたびわが本体をめざして昇り、おのが光へ帰入するおんみ、星はまたしても力伸びひろがりて太陽に化し、ただひとつの眼となる——」(223頁)

 ここに「十字架」は持ち出されない。だがすでに「死の形象」としての奴隷の中に、何よりもその言葉の中に、深々と刻印されていたのかもしれない。「地上の眼には(神の)権化の姿」の原文 Deine zweite Gestalt は、端的に「御身の第二の姿」と訳すこともできる。そこに第三の姿(すなわち精霊/聖霊 Geist)が揃うなら、「三位一体」が完成をみるだろう。それにしてもこの奴隷はいま誰に祈るのだろうか。イエスの到来が間近いとはいえ、今はまだそれ以前、キリストの教理も説かれず、教えをめぐる論争など望むべくもないという、紀元前に彼は身を置いていた・・・・

 さて、ここであらためて、「アジア」出身という奴隷に注目しよう。第3部が始まってまもなく、男の相貌が描かれた。

「東洋人めいていささか傲慢な、その奥をうかがうよしもない仮面のような、年齢も定かならぬ従僕の顔(In dem orientaliscen, ein wenig dicknäsigen, undurchdringlich maskenhaften und alterslosen Dienergesicht)」(190頁)を彼はしていたと。

 その顔は相手に不遜や無礼を感じさせる。表情や年齢も読み取られず、遠くから見ると識別もつかない。ということは、誰もが同じように見えてしまう。そんな者たちだというのか。
 でも、ちょっと待ってください。たとえば今から地下鉄に乗れば、あなたのすぐ近くにも、すぐ後ろにも、このような人は座っている。立っている。ひょっとしたら、横たわっている。東京でも、パリでも。もしよかったらそれぞれに考え、よく探してみてください。今年の長いゴールデンウィークの後にでも。(2019年4月27日記)

(引用の頁数は1966年刊行の集英社世界文学全集7。写真はベルギーのルーフェンLeuvenにあるフロート・ベヘインホフ修道会跡にて、2005年の夏に撮影する。)

 


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆。
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。