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大車輪8 -めくるめく六重奏- 『ウェルギリウスの死』第3部より

 ヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』(1945)、今回も先月と同じところにとどまる。詩人である二人の友は去り、替わって少年リュサニアスとアジア生まれの奴隷が相次いで見え隠れしながら、物語の道筋を描く。ウェルギリウスは奴隷に出自と信仰、名前を尋ねたが、相手は否定と受動を投げ返す。

「奴隷にはわがものと呼べるものはございません。御前様、奴隷には名がございません。裸のまま鎖につながれているのでございます。なんとお呼びになろうと、それがわたくしの名になるのでございます。」(218~219頁)

 これに対して詩人は「リュサニアスか?」と、奴隷に問いを重ねる。この声に呼び出されて当の少年がまた姿を見せる。奴隷の代役をつとめ、回答する。少年と奴隷、2つの人格の見極めがますますつかなくなる。これに続いて、決まり文句「もとめた、おお、もとめた(gesucht, oh gesucht)——」にも導かれ、少年、奴隷、詩人のいずれにも属さない発語、だから地の文としての描写が3度くりかえされる。その3つ目の一節に注目したい。

「——もとめた、おお、もとめた——おお、帰郷——終末は発端につながれ、発端は終末につながれ、神々はなお支配し、義務をさだめている。光を与える神はこう命じていた——生のうちに死をとらえよ、死が汝の生をかがやかさんがために。ただ発端にまで突き進む者のみが——おお、探究よ、神の記憶よ——、発端よりさらに古い根の領域をくりかえし想起する者のみが、終末と発端との結合を経験することができる、そして、過去の深みにおいて保証されたありとあらゆる未来を想起することができるのだ。ただながれ去るものを確保する者のみが、ながれ失せたものの中において死を圧しひしぐのだ。過去の深淵はかぎりも知らず、名をもたない。美神たちは死に仕え、ウェスタ(かまどの女神)の斎女のように、こよなく神聖な火を、アポロの金色の光耀を守っている。」(220頁)

 ここには、時間と世界の生生流転をめぐり、3対にして6つの要素が織り込まれ、精妙に組み合わされる。発端、終末、生、死、過去、未来、と。

 まずは終末と発端。「終末は発端につながれ」と輪廻を告げる。何事かが終わるとき、またしてもその始まりに立っている。が、注意しよう。反対のベクトルも同時に指摘され繋がれる。「発端は終末につながれ」と。終末から発端、ばかりではなく、発端から終末、この双方向、とくに2つ目の接続が明記されないと、このあとの文章が続かない。なんとなれば、こう引き継がれるではないか。光を与える神(アポロ)が命じたという。「生のうちに死をとらえよ、死が汝の生をかがやかさんがために」。終末(死)が発端(誕生)に繋がれるだけでは、生のうちに死をとらえることはできない。発端が来たるべき必然としての終末(死)に繋がれ、いつもそれを予見し、それを読み取り、そのことによってのみ、生の輝きはもたらされる。生を光輝に導くのは死なのだからと。そこには「哲学は死の練習である」という、ソクラテスのテーゼが共鳴する。

 さらに叙述はソクラテスの弟子プラトンを巻き込んでいく。発端と終末、生命体にとっての生と死、それらの双方向での結合には一段と奥深い前提条件が求められる。すなわちこの結合を体験するのは、「発端よりさらに古い根の領域をくりかえし想起する者」である。この「根(Wurzel)」を「イデア」と読み換えるならば、「想起する(erinnern)」というキーワードにも導かれ、私たちはプラトンの想起説(アナムネーシス)にたどり着く。この作品におけるヘレニズムとヘブライズムの競合に思いを致すならば、必ずしも浅慮とも言われまい。

 ソクラテスやプラトンに従って言い改めると、発端と終末、生と死、それらの結合を体験するのは、「死の練習」としての哲学を通じ、発端よりもさらに深くて古い根源、すなわちイデアを観得する者である。その根源が過去の深みにおいて、すでに未来を規定する。究める者はそのように裏付けられた来たるべきものを、予見でもなく、想起する。未来を想起へと、過去へと接続する。こうして発端と終末、生と死、過去と未来を組み合わせた六重奏が紡がれ、流れ去るものを確保しつつ、流れ失せたもの、すなわち過去の深淵の中に、死は圧しひしがれる。その死もまた生に通じ、生もまた死を望見する。

国境フェンスもすいすい飛び越えて

 だが、このめくるめく神秘の只中で、未知なるもの、新たなるものは、いったいどのようにして、来たるべきものとしての自らを発見するためのソロパートを取れるのだろうか。

 いずれにせよ、キリスト到来の直前という絶妙のタイミングで死を迎えるウェルギリウス。彼をめぐって、ギリシアでもパレスチナでもない、地中海の長靴の先端(ローマ・イタリア)に設定された、いかにも急ごしらえの演奏会場でなければ、2つの思潮、6つの概念による一節は功を奏しなかったのかもしれない。思えば作者ブロッホはそんな恰好の時空を一筋の長篇にあつらえてみせた。このオーダーメイド、注文者ははたして、誰なのか?
(引用の頁数は今回も1966年刊行の集英社世界文学全集7のものである。ちなみに先月まで全国古書店組合のホームページで1冊だけ確認されたこの本が売れて消えていた。写真はメキシコからロスアンゼルスに向かう機内から地上を望む。)

 
 
 


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆。
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。