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風の薔薇 14
天才ヴィゴの夢のような作品

『新学期 操行ゼロ』ジャン・ヴィゴ
 さて、「風の薔薇」の14号は、ヌーヴェル・ヴァーグの監督ではないが、ヌーヴェル・ヴァーグに多大な影響を与えたジャン・ヴィゴの『新学期 操行ゼロ』にスポットを当てたい。特に、フランソワ・トリュフォーは『大人は分かってくれない』製作に際し、大いに触発されたと言う。
 ル・プチメックの御池のお店(通称 黒メック)内にこの映画のポスターが貼られていたのを見つけた時は、正直、胸がときめいた。 
c_tk14-1 本作監督のヴィゴは呪われた作家と言われ、夭折したこともあり、フランスの詩人ランボーに例えられたりもする。
 確かに、『新学期 操行ゼロ』は1933年に製作されたが、当局から上映禁止の処分を受け、初公開はヴィゴの死後であったので、恵まれない作品であった。だが、映画史上に残る、伝説的、神話的作品であることに間違いはない。

 ヴィゴの生涯を簡単に辿ってみることにしよう。
 ヴィゴは1905年、パリに生まれた。父親はアナーキストの活動家であった。当局から目をつけられたヴィゴの父親は、投獄され、死亡した。死因は自殺と片づけられたが、靴の紐を首に巻き付けての死であった。他殺とも自殺ともつかない父の死は、ヴィゴの一生に影を落とす。
 右翼からも政府からも圧力を受けたヴィゴの一家は、少年であったヴィゴを偽名で寄宿学校に入れた。ヴィゴは自由を愛し規則を嫌ったので、厳格な制約だらけの寄宿舎は居心地が悪かった。
 また、父親がアナーキストだったことを知ったクラスメートからの仲間外れの仕打ちにも会い、孤独な子供時代を送ることとなった。寄宿学校をたらい回しにされた苦い思い出が『新学期 操行ゼロ』の着想の元になっていると思われる。
 そんな彼を救ったのが、義理の祖父(母親の再婚相手の父)で、カメラの手ほどきをしたのだ。映像に魅せられたヴィゴは、見よう見まねでカメラを操るようになる。
 その後、パリに出て大学で哲学を学ぶが、映画への夢は断ちがたかった。紆余曲折を経て、著名なニースのヴィクトリーヌ・スタジオでカメラマン助手の職を得る、また当時、決定的な出会いがあった。カメラマンのボリス・カウフマンと知り合ったのだった。カウフマンこそがヴィゴの詩情溢れるストーリーの映像化を可能にしたのだ。
 『新学期 操行ゼロ』は、2本のドキュメンタリー的作品を撮った後にヴィゴが取り組んだ作品であるが、完成後の運には恵まれなかった。内容が公序良俗に反するとみなされ、上映禁止の措置を受けたのだ。
 その後も、患っていた肺結核が完治することはなく、結局、その持病が29歳という若すぎる年齢での死を招く。生前に代表作が映画館で上映されることなく世を去るが、死後名声は高まるばかりだった。

 実にドラマティックな人生だが、作品『新学期 操行ゼロ』も負けず劣らず、ワクワクするようなストーリーだ。ちなみに「操行ゼロ」とは、生徒の素行が悪いことを意味し、罰則として日曜の外出禁止が設けられていた。
 時は、バカンス明け。休み明けに寮に戻る中学生の男の子ふたりが、冒頭に登場する。
 この二人が、休み中に仕入れた面白いものをお互いに披露しあう。この場面、映画『アメリ』のクレジット場面で少女時代のアメリがとっておきのお楽しみを次々と観客に披露する場面を彷彿させ、とても心和む。台詞はないが、指がちょん切れてしまった芸を見せたり、鳥の真似をしたり、たわいもない遊びで男の子たちは、心から楽しんでいる風だ。
 その気分が、寮近くの駅に到着した途端、厳しい舎監の出迎えにより、吹き飛んでしまう。これからの規則漬けの日々を思い、子供たちは憂鬱になる。
 ところが、新任教師のユゲ先生だけは面白い。休み時間にチャップリンの真似をして歩いたり、逆立ちをしてペンをくわえて絵を描くなど、独特のユーモアで子供たちを楽しませる。タチの『僕の伯父さん』のムッシュー・ユロにもインスピレーションを与えたという説があるのも頷ける。
 ユゲ先生に率いられて子供たちが学外に散歩に出かけるシーンはトリュフォーの『大人は分かってくれない』やルイ・マルの『さよなら子供たち』の一場面を思わせる。トリュフォーやマルは『新学期 操行ゼロ』へオマージュを捧げたのだろうか。ともあれ、この散歩場面は生き生きと、活気に溢れている。
 ところが、いつの時代、どんな場所でも、こども心を忘れない大人がいる一方、こちこち頭の大人たちも大勢いるのが世の中だ。
 ユゲ先生以外の舎監の先生、校長、教頭の面々は、子供たちを理解するどころか、思春期の感じやすい心を全く理解しようとしていない。逆に押さえつけて、服従させようとする。
 絶望した子供たちは、反乱を企てる。厳かな式典が行われる日に、屋上からお偉方連中の来賓に向かって古靴や古本を投げつけて、権力に対抗しようとする。この企みは成功し、映画のエンディングでは首謀者の4人の少年たちは意気揚々と建物の屋根を行進している。しかし、いつかは地上に下りなくてはならない彼らの命運やいかに?

 寄宿舎での息の詰まるような生活の描写はヴィゴの実体験に基づいているものであろう。一つ一つのディテールが、とてもリアルで繊細なユーモアが含まれている。
 例えば、寮の食事がいつもインゲン豆であることに不満を露わにした少年たちが、食堂のテーブルで騒動を引き起こすシーンが秀逸だ。列をなして食堂に到着した子供たちは、定められた席に着く。順番に運ばれてくる食事がメイン料理に達したとき、誰からともなく「またインゲン豆だ!」という声が発せられる。
 すると待ち構えていたように、あちこちのテーブルから、いい加減にして欲しいとばかりに不満が噴き出す。皿を投げ出す者、テーブルを叩く者、料理から豆をつまみ出して投げる者、等々。このアナーキーで勢いのある場面は、監督の演出なのか、それとも子供たちのアドリブなのか。観ている方としてはあまりの迫力に、つい、心の中で「子供たちガンバレ!」と声援を送ってしまう。 
c_tk11-1 また、とても有名な枕投げのシーンもまた素晴らしい。教師の抑圧に耐え兼ねた子供たちは寝室内で怒りを爆発させる。誰からともなく始まった枕投げは次第にエスカレートし、大きな寝室の中は舞い散る羽毛で視界もさえぎられるほどだ。
 よく見ると、羽毛のために呼吸もままならないと言った風の子供たちが、何かに取り憑かれたようにひたすら枕を投げる。舎監は必死に収めようとするが、それも空しい。最後には提灯を掲げて、勝利宣言の行進が意気揚々と行われる。

 この枕投げのシーンは、超スローモーションで撮影され、観る者に強烈な印象を残す。夢のような美しさと漂う詩情に圧倒され、画面を通して自由への渇望に我々も包まれるような気がしてくる場面である。
 ここは、前に書いたカメラマンのボリス・カウフマンの腕前が冴えわたっているところだ。勿論、監督ヴィゴの指示も優れていただろうが、それを実現するカメラマンの素晴らしいセンスなくしては、このような夢幻的シーンを撮ることは不可能だったのではないだろうか。

 映画史に残る現実と超現実の境目のような羽毛立ち込めるシーンを含め、内容的に不穏であるという理由で上映禁止の憂き目にあった『新学期 操行ゼロ』が最初に上映されたのは、何と製作から13年もたった1946年であった。
 筆者は1976年に東京の三百人劇場で上映された時に初めて観て、衝撃を受けた。(これは今はなき「フランス映画社」のBOWシリーズ第一回上映作品であった)フランス人って、やっぱり自由が何より好きなんだな、とその時、強く思った。
 それから40年たっても、その思いは変わらない。名作って、そういうものなんだろう。

 『新学期 操行ゼロ』の後、当局の弾圧にもめげずヴィゴは『アタラント号』という、これもまた映画史上に残る詩情あふれる美しい映画を作り上げた。が間もなく、持病の結核の悪化がたたり、悲しいことに亡くなってしまう。劇場での上映も観ることがなかったと言う。
 作品が死後にしか評価されなかったヴィゴは、本当の意味で呪われた作家だったのかもしれない。しかし、作品の超絶的な美しさを目の前にするとき、我々は、こんなに素晴らしい映画を残してくれてヴィゴよ、ありがとう、と何度でも心の中で呟くのだ。

 


著者プロフィール

月刊『La rose des vents「風の薔薇」』毎月3日公開

田村 恵子 (青木 恵都)

東京生まれ。
文学、映画とパンをこよなく愛する。アポリネール、ヌーヴェル・ヴァーグ、ハード系パンが好きです。最近は夫が立ち上げたタムラ堂刊行の『夜の木』などを青木恵都という名で翻訳。
タムラ堂