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大車輪9 -鼠輩(アウグストゥス万歳!)-

 オーストリアの作家ヘルマン・ブロッホ(Hermann Broch)の長篇『ウェルギリウスの死』(1945)をめぐるコラムシリーズもいよいよ今回が打ち止めとなる。ということで、第3部から第2部、「水——到着」へと1つさかのぼることにした。これまで筆者とともにたどって来られたみなさまは、引用する以下の文章ならびに文体についてどんな印象をお持ちになるだろうか。

「—— 「陛下の粉よ」と愛国者の大男がやさしくいい聞かせながら、壁からはなれようとしはじめた、「陛下のくださる粉よ、自分で聞いたじゃねえか・・・・陛下万歳!」(中略)「そうともよ、明日になりゃ分けてくれるぜ、陛下が分けてくださるぜ・・・・一文もかかりゃしねえやな!」といったとき、女はこらえることができなくなった。「分けてくれるのは×××だよ」——と彼女は金切り声をあげた、広場中にひびきわたる声だった——、「陛下がくださるのは、×××だよ・・・・×××さ、×××だよ、あんたの陛下ってのは。踊って、うたって、女郎買って、××××するんだよ、陛下さんは。ほかにはなんにもできやしない、×××をひりだすだけさ!」——「××××・・・・××××・・・・××××・・・・」とでぶは嬉しそうにくりかえした」(90~91)
(—≫Mehl vom Cäser!≪, belehrte sie hold der patriotische Turm und begann, sich von der Mauer zu lösen, ≫Mehl vom Cäser, hast es selbst gehört…Heil Ihm!≪ (Abkürzung) ≫Jawohl, morgen wird’s austeilt, morgen läßt er’s austeilen… kost dich garnix!≪, da riß ihr die Geduld: ≫Ein Dreck wird austeilt≪, — sie kreischte, daß es über den ganzen Platz hingellte—. ≫einen Dreck gibt der Cäser her… ein Dreck is dein Cäser, ein Dreck ist er, der Cäser; tanzen und singen und ficken und huren kann er, der Herr Cäser, aber sonst kann er nix, und ein Dreck gibt er her!≪—≫Ficken… ficken… ficken…≪, wiederholte der Dicke beseligt)107~108

 ここは名うてのブーランジュリ、ル・プチメックさんのホームページである。そのほんの片隅とはいえ、これでも少しは記載に配慮した。川村二郎氏の翻訳にはひとつの「×」も入っていない。当たり前だがそのままの剥き出しである。日本語の伏せ字については、読まれる方それぞれの豊かな想像力に委ねるが、ドイツ語を巧みにされるみなさまには、特別サービスというか、省略せずに全文をコピーした。不快に思われる筋がおありなら、責任は引用者たる私(蜷川泰司)にあることをお断りしておく。かりにブロッホ当人の責任を追及される場合は、ぜひ彼岸にでもいまの彼の所在を確かめてからにしていただきたい。
 これはイタリア半島の南部、ブルンディシウムの港に上陸、帰還したウェルギリウスが仮住まいの窓から見た夜の街の光景である。一人の女と、痩身に肥満、対照的な体格の二人の男、いずれも酔っ払いの三人組が罵声に嬌声も織り交ぜながらさ迷う姿を、かれらの発する浅ましい言葉遣いとともに描き出す。こんな場面は後にも先にもこの作品の中でここをおいてほかには見当たらない。しかしただひとつの、そんな醜悪なるやりとりの陳列が一粒の香辛料のごとき効能をもたらし、作品全体の調理に浅はかならぬ影響を及ぼしている、それについては疑いを入れない。もしもこの一節がなければ、長きにわたる叙述は平板なる延べ広がりに堕する危険さえ、読者たる私には想像される。おそらくブロッホはしたたかなる叡智をもって、この下品と低劣を仕掛けた。ついでに申し上げると、翻訳文の2行目の「陛下万歳!」、ドイツ語原文は「Heil Ihm!」。「陛下」にはIhmと、大文字の代名詞が使われるが、この長篇が世に出た1945年とドイツ語の「Heil」から強く連想されるのは、オーストリア出身の別の著名な人物、一人の政治指導者の男である。Heil H・・!

 2016年9月のコラムで私はフランスの作家セリーヌを取り上げた。フランス語にドイツ語と、使用言語も異なるが、セリーヌとブロッホはさまざまな次元で対照的である。たとえば文の長さ。セリーヌは歯切れの良い短文を積み重ねる。それに対してブロッホのドイツ語は10行をこえる長文が通常となる。どちらも原文を読むのには中級以上の辞書が欠かせない。セリーヌの用いる語彙は、「俗語」ないし「卑語」と付記された項目をみて意味が取れることが頻繁である。反対にブロッホはオーストリア人であるがため、そちらに特有の意味合いになるケースも散見されるが、辞書を調べていてよく出会うのが「雅」という項目、つまり雅語という指定である。戯けが過ぎるかもしれないが、「源氏物語」から、たったいま読み終えたばかりの一節を引こうか。いにしえのみやび、にも倣いて・・・・

「廿日あまりの月、さし出でて、こなたは、また、さやかならねど、大方の空、をかしき程なるに、ふんの司の御琴召しいでて、和琴、権中納言、賜はり給ふ。さはいえど、人にまさりて、かきたて給へり。」(「繪合」(ゑあはせ)より)

 それでも、2人の作家の対照を「対立」ではなく「好一対」にでもすりかえていくような秘密の抜け穴が、冒頭に引いた第2部の一節からは、鮮烈にも透かされて立ち見える。因みにセリーヌの2作品『夜の果ての旅』と『なしくずしの死』は『ウェルギリウスの死』に先立つこと10年あまりという、いずれも大作である。

 私は長篇執筆のかたわら、これまでに200前後のコラムや小論を手がけてきたが、学生時代を除けば、一人の作家の作品についてこのように連続して論じたことはなかった。久方ぶりのドイツ語にも「苦悶」させてもらった。散漫低調の誹りも免れぬ記述ながら、貴重な機会を提供していただいたル・プチメックとそのホームページに心からの感謝を献じ、「大車輪」のシリーズはいったん休みに入る。また態勢を整えて、残る二人の先人(ウェルギリウス自身とダンテ)にも挑んでみたい。
(タイトルにみえる「鼠輩(そはい)」とは、取るに足りない卑しいやつ、の意。広辞苑第六版より。なお冒頭に引用した文章末尾に添えた頁数のうち、日本語訳は1966年刊行の集英社世界文学全集7、ドイツ語原文はズーアカンプ社の著作集のものである。)

 


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆。
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。