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月の本棚 八月 奇跡も語る者がいなければ

これはあの映画(『カメラを止めるな!』)のようなところがある。
最初だけ我慢する。もしかして……と少しずつわかってくる。最後まで読み、全貌が明らかになり、俯瞰する天使の目を得たとき、再び最初から読み返したくなってくる。そして二度目の方がより好きになっている。この小説は英国人作家のデビュー作にして「サマセット・モーム賞」など文学賞を二つも受賞している。

夏の終わりの8月31日、平凡な町に事件が起きる。それが何なのか、なかなか見えてこない。読者は「何があったの?」と思いながら、事件まで秒刻みに進行する町の長い一日を、少しまどろっこしく感じながら読み進めていくことになる。でも、永遠に続くかと思われるその描写、町の人たちの日常の、何気ない情景の一つひとつが脳内でリアルに、美しい映画のような像を結んでいく。

「この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活は、そのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う」

町の住人のひとり、過去に火事で妻を失い、自分も大やけどを負った男が娘に話している。男の名も娘の名も出てこない。

8月31日の記述と並行して、この小説の半分を占めているのが、かつて町の住人だった女の子が語る3年後の現在だ。彼女は妊娠している。それは住んでいた町とは関係ない。関係ないのだが、彼女の未来はその町と事件にも関わりを持ってくるだろう。

今、彼女も無名であったことに気がついた。無名は、誰でもそのひとであり得ることを許す。気がつくとその感情にするりと入り込んでしまう。読み終えたくない。またいつか読み返す。こういう本を「月の本棚」に置きたいと思う。

「こんな小説をずっと読んでいられたら僕はわりとすごく幸せでいられるんじゃないだろうかと、そう思うような気分のよさが続いている」とfuzkue の阿久津隆さんが『読書の日記』の中で書かれていた。そうだ、それが『奇跡も語る者がいなければ』を手にしたきっかけだった。

自分にとって素敵な本を見つける方法の一つは、センスが似た読み手のセレクションを見逃さないことだ。ちなみに『読書の日記』は1100ページを越す分厚い本で、重くて持ち歩けないし、寝そべって読んでも腕が疲れるし、机に置いて姿勢を正して読まなくてはならない。そして出合った本を次々と読みたくなるので、なかなか読了できない。ずっと読んでいられるという幸せがある。

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『奇跡も語る者がいなければ』ジョン・マグレガー著 真野泰訳 (新潮社 2004)
『読書の日記』阿久津隆著 (NUMABOOKS 2018)

さて、2016年2月から連載させていただいてきた『月の本棚 清水美穂子のBread-B』も今回が最終回となりました。コラム連載にあたり、西山逸成さんから「プチメック」をNGワード指定されていたため、それならパン以外のこと、西山さんといつも話している本の話にしようと思い、始まりました。

パンとホンはいずれも二文字(bread とbookなら四文字)で表されますが、人によって思い浮かべるそれはさまざまです。普段食べている(読んでいる)ものを知れば、そのひとの暮らしや好みが垣間見えるという、面白さがあります。本棚と冷蔵庫は似ている。月の本棚はわたし好みのセレクションです。いかがでしたか。
月を見上げるときのようにぼーっと力を抜いて、果てしない気持ちになっていただけたら幸いです。

※『月の本棚』清水美穂子著(書肆梓 2018)は、レフェクトワール(神宮前)、松庵文庫(西荻窪)、古本バル月よみ堂(西荻窪)、夜と青ノ空(吉祥寺)に在庫がございます。
または書肆梓(shoshi.azusa@gmail.com)へお問い合わせください。


著者プロフィール

月刊『月の本棚  清水美穂子のBread-B』毎月24日公開
icon_shi 清水美穂子
ライター・ブレッドジャーナリスト

普段はBread+something good(パンと何かいいもの)をテーマに執筆・発信していますが、ここではBread-B。Bを外してしまって、Reading周辺のsomething goodを書いていきたいと思います。
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