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不定期気まぐれ刊行 vol.2

私の仕事のはじまり。

私は1975年に狂乱で魅惑的なパリ生活から帰国した。22才だった。
そして現実に直面し、どう生きていってらよいのか皆目見当がつかなかった。
というのも文化服装学院卒の同級生は皆デザイナーやパタンナー、縫製者になっていたが、私はそれらのどれもなりたいとも思わず、なれないと思っていたからだ。
ただ私は素敵な人やモノやコトや場所や経験を他の同級生よりしてきていて何の裏付けもない自身のこだわりや価値観は誰よりも持っていると勝手に思っている自惚れた女子だった。
そんな時パリから帰国時飛行機の中で後ろの席に偶然「キャンティー物語」の本にも登場するキャンティーの息子でもありプロデューサーのK.Sさんが乗り合わせ、お話をさせていただいた。彼のことは以前から知っていたし飯倉キャンティーにもたまに行っていた。そのK.Sさんから「今度僕がプロデュースする仕事でフランスからヘアメイクの人を呼ぶから奥様のアテンドをしてもらえない?」と仕事をもらった。
それはパリからモーリス レノマ、カメラマンのデヴィッド ベイリー、その時の奥様のマリー ヘルビン、そしてジェーン バーキン、セルジュ ゲンズブールが一同に来日する一大プロジェクトでありプロモーションの仕事で、私はジェーンとセルジュを羽田まで迎えに行くのが最初の仕事だった。ジェーンはあのカゴバックを片手にセルジュはジターンを吸いながら素晴らしく自由ななりでお二人は酔っ払ていたのか、違うモノだったのか解らないが私の前に舞い降りたのだ。

特別何ができる訳でもない私は言われるままにその一員となり来日中はそれらの仕事を隅で見て待機しているというまあ居なくても誰も困らない仕事だった。ただ私はそのプロモーションの一連の中でショーの進行をK.Sさんの横で見させてもらい、世の中にはこんな職種があるんだと感激し興奮した。そしてその夢の様な一ヶ月が終わり私はまたプー太郎になり原宿でふらふらしていた。その後ばったりそのプロモーションに関わったアパレル会社ACの広報室長にお会いした。
「何やってるの?」「いえ、何もしてません。」「じゃあ、うちの会社に来い!」「はいありがとうございます。」
そしてその会社ACの社長であるS.Y氏の面接を受け「君は販促をやりなさい。」
私。「販促って何ですか?」 そんな何も知らない私を雇って下さったS.Y氏はかなりチャレンジャーであり大きな懐の紳士であった。そこの社員は今と違い経験者をあまり採用せず、社長のS.Y氏の感性に合う人選だったというのもラッキーだった。今はもうないが原宿の伊藤病院裏の大きな一軒家が本社だった。

1977年24才。そこからが私のアパレル会社での販売促進プレスの仕事の始まりである。
その頃プレスという仕事はまだ確立してなく雑誌への服の貸し出しやブランドのイメージ撮影、VMD、プロモーションに関わる全て何でも屋の様な仕事だ。私は会社で印刷や、広告の入稿の仕組み、撮影の手順などを教えてもらったが、限られた予算で工夫しなくてはならないハードだが楽しんで学び仕事をさせてもらった。

その会社ACはアパレルでもシンプルで上質なオリジナルを作り、インポートブランドも扱い他のアパレルの先駆者的存在だった。今のセレクトショップの原型だ。そして私は一人で5つのブランドのプロモーションを抱えることになった。なので社長の意に沿わないプレゼンテーションは大声でどなられ、一軒家の会社中に響き渡る。でも生意気な私は屈せずかなり頑固者だった。勤続数年後Y.S社長は私がプロデュースしたブランドの撮影一連を褒めて下さった。最初は何も知らないただのワガママ娘だった私にその言葉は最高の喜びであり今の私を形成する原点になった。拾って下さったS.Y氏に今でも感謝の気持ちは忘れていない。

そんな私は相変わらず夜な夜な遊び、多くのファッション関係者との交流において仕事にも反映させていった。その夜な夜なな遊びはタケ先生(菊池武夫)との交流でもあった。私は30才になっていた。時代は1983年ファッションは一大産業になっていてブランドも様々ありその80’Sカルチャーは新鮮で刺激的であった。

そして私はショーをやっているブランドに入りたいと思いだした。
そんな時、私が17才から憧れていて、19才の時に初めてビブロスで知り合い、声をかけてもらいそれからはずっと遊びのシーンでも一緒だった菊池武夫氏から「僕のところへ来ない?」と誘われた。もう本当に嬉しかった。これまでのプレスとしての経験でタケ先生の為に働けるのは光栄でもあったが不安でもあった。やはり私の不安は的中したのだった。

1984年タケ先生は私をビギに誘っておきながら、自分はさっさとワールドに移籍してしまった。私はそんなゴタゴタに巻き込まれ一年間ビギで人質のような感じで働いた。でもそこにはタケ先生の最初の妻でもあった稲葉賀恵先生がいらした。ヨシエ先生は本当にエレガントであり可愛くもあり、男まさりでもあり、女性としてこんな素敵な人がいるんだと私の指針にもなったのは感謝している。

そしてタケ先生がワールドに移籍しても付き合いは相変わらずしていて、ある日ワールドのタケオキクチプレスが辞めていたのを知り、タケ先生に「そろそろそちらに行ってあげます」とワールドに入った。32才になっていた。そこからの私は信じられないタケ先生のクリエータとしての顔を見る事になる。それまでタケ先生とはプライヴェートでしか付き合いがなく、仕事はした事がなかった。他の人にはどれほど大変で気まぐれで手に負えないか等は聞いていたのだが、そこから私の試練の時が始まったのである。

私がタケオキクチに入って直ぐの1986SSコレクションはあの今から30年前の伝説になったそのショーである。場所探しに夜な夜な得意のリサーチに先生と出かけ最終的に私達の懐かしく馴染みの場所でもある赤坂のビブロス その地下にあるムゲンというライブハウスに決めた。そこからが前代未聞のショーになったのだ。ロンドンからはスタイリストでもありバッファロー率いる今は亡きレイ ペトリがモデルやミュージシャンを連れてショーのオーガナイズをした。そこには昨年亡くなった20代のバリー ケイマンもいた。DJはドン レッツだった。
2012年マガジンハウスから出版された「菊池武夫の本」にもそのショーの事は書いてあるが、私の側からのその時の出来事を書かせてもらう。
私はワールド タケオキクチのプレスになって数ヶ月だった。前人が資料を何も残していってくれていなかったので全て一からやらなくてはならなかった。しかもDCブーム真っ盛りの頂点に立つTAKEO KIKUCHIブランドを一人で雑誌社やスタイリストへの服の貸し出し、片づけ、日常の業務に加えショーの打ち合わせが始まり何をどうしたのか思い出せないくらいの毎日だった。ショーはサンプルが上がってきて、数日前にはロンドンチームが来日してきた、もう考えられない程の不良男達であったが個々にスタイルを持ちとてもカッコよかった。
レイ ペトリがどんどんスタイリングしていく間に私達はショー当日の舞台、オペレーション等、佳境に入っていった。そのムゲンは小さい箱で300人も入ればパンパンであった。
それは今まで私が観てきたTAKEO KIKUCHIのショーの中でも一番小さな箱だった。モデルは普通のメゾンでは20人位の起用だが、タケ先生の場合はその倍から3倍のモデルを使う(ロンドンチーム15名程込み)そんな小さな箱のバックステージは狂気の沙汰、お客様は3回のショーをやる事で回避しようと話し合いをした。一回目のショーはメディアとジャーナリスト、スタイリストと冷静かつシビアに評価する面々をお招きする事に、私はその選択は最良ではない、もっと菊池武夫ファンやお友達を混ぜ込んだ方が盛り上がると意見したが、タケ先生の真面目なもう一つの顔がメディアやカメラマンの為にも席を作った方が良いとの判断でそのようになった。

いよいよショーが始まりジャーナリスト達は着席、カメラマン達も狭いステージの後ろに身動きできない程の人数が集まった。演出は四方義朗氏。ヘアメイクは渡辺サブロウ氏。「菊池武夫の本」にはこう書いてある。
「一回目のショーが終わり、ショーの持つ非現実の世界から現実の世界に戻った瞬間、その日の私に今まで経験したことのない気持ちが襲ってきた。それは上がっていたテンションが急激に下がる不思議な感覚でもあった。、、、、、」
というようにその現場にいた我々はショーの最中、悪夢かと思える出来事を経験した。ジャーナリスト達はシーンと観覧、その後ろのカメラマン達は狭さゆえのトラブルで殴り合いの喧嘩、そしてそろそろフィナーレにさしかかる15分前にインカムの向こうで四方氏が「タケを待機させて!」「タケ先生いません!」「タケ先生行方不明です!」「田辺、タケは?タケは〜〜!!」「タケ〜!!!」
私の頭の中で四方氏の声が山びこのようにグルグル回った。

皆慌てショーの最中に外まで探し回るスタッフ、そして私と四方氏は冷や汗。一回目のデザイナー不在のショー終了。

「菊池武夫の本」にはその心境が冷静に書かれてあるが私達は生きた心地がしなかった。そして二回目のショーの最後にタケ先生は戻ってきて、最終3回目のショーはメチャクチャな盛り上がりと共にめでたく終了した。

改めてそんな人は見たことないと思ったが何故か許せる菊池武夫である。
それはクリエイターとしての畏敬の念と、人としての優しさがあるからだ。

私はそこから毎回のショーでのトラブルと行方不明は日常となり、平気な顔で無理難題を言う先生にも「出来ません」と言うのが悔しく、ショー以外でも途方もない自由人の先生に対しそれらもこなす事ができる程どんどん強い私になっていった。もう怖いものは何も無いと思える程鍛えられた。

そして昨年2015年TAKEO KIKUCHI30周年のショーはその悪夢の1986年ムゲンでのショーのオマージュとして行われた。

私は1990年にTAKEO KIKUCHIのプレスは辞めていたが、2010年のタケ先生の「私は自分の本を創りたいんだ。」の一言でまた先生と関わる事になり、そこから30周年のイベント、旗艦店のオープン(これは3階にカフェを入れたいとの話が持ち上がりプチメック、レフェクトワールの西山さんにも出会い現在に至る)昨年の30周年ショーまでまた一緒に仕事する事になった。これも菊池武夫との縁から導かれたもので私が学んできたこれまでのスキルをもう一度試させてもらう機会に恵まれ本当に光栄な2010年から2015年であった。タケ先生には大きな愛と感謝の気持ちを捧げます。

人は一人で生まれてくる。そして親や周りのお陰で大きくなり独り立ちしていく。 その大人になってからは自身の責任で学び選び、悲しみや喜びを経験し乗り越えていく。そんな人生においての節目で必ず縁ある人と出会い、すくい上げてもらう機会があるのは強運だ。それに恥じぬようもう少し生きていこうと私は思っている。

 


著者プロフィール

『私のしてきた過去、現在。』不定期きまぐれ刊行 
icon_tanabe田辺 三千代

静岡県生まれ。
文化服装学院デザイン科卒業後パリ遊学。
アパレル会社プレスを経て1984年メンズデザイナー菊池武夫と共にTAKEO KIKUCHIブランドをチーフプレスとして支える。
1999年山梨県西湖にCAFÉ Mをオープンさせそれまでマイナーなイメージだった西湖を内外から認知された。
2002年(株)ジュンのPR室顧問として2010年まで在職する。
2005年既存の紙皿には和食は似合わないと発案し、WASARAブランドをプロデュース。現在世界中で販売されている。http://www.wasara.jp
2012年5月マガジンハウスから出版された「菊池武夫の本」に深く関わる。
2012年11月菊池武夫の旗艦店オープンに伴いキュレターとして参加。
2015年4月より広島の原爆の子に世界中から贈られる千羽鶴をリサイクル紙にし作った扇FANOを発案プロデュース。8/6の式典に寄贈し現在(株)カミーノと共にビジネスを進行中。www.fano.jp