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不定期気まぐれ刊行 vol.3

私が会社員をやめてから。

1991年 3月に私はTAKEO KIKUCHIを辞めた。
どうしてかと言われると、ただ自分の席がどうしても居心地が悪く違和感を感じたのが1990年の秋、37才だった。 特別仕事に問題もなく、そのままずっと 会社員として昇進もできたと思うが、一つだけ問題があった。
それは私は菊池武夫と仕事をしたくて入った会社だが、その時期 菊池は一年以上会社に来なくなっていた。 私は仕事の目標を見失ったのである。

そして秋晴れの清しい陽気のある日、空を見上げ「会社に行きたくない」と思った。
その翌日辞表を出した。 単純にもう終わりにしたいと感覚だけで決めた。
そんな直感的で唐突に人生観を変えられるのは私にとって初めてのことではなく多分生まれてからずっと動物的感のようなもので道を決めてきたような気がする。

タケ先生に「私は辞めます、お世話になりました。」と言うと、「どうせ僕が止めても辞めるんだろ!」「はい。」

そして私は自由人になり一応会社を作った。最初はメンズスタイリスト3名のマネージメントや雑誌のファッションページを請け負う仕事がメインでCMのスタイリング製作等だった。
それは私にとって別段今までやってきた仕事と変わりはないが、立場が逆転した。
それはそれで楽しく仕事もさせてもらったし、知らない世界も知る良い経験になった。

それでもせっかく自由になったのだから平日に何か趣味や稽古事をやりたいと思い突然テニススクールに入った。
のめり込みやすい私は全てがテニスをしたいが為に友人関係や環境を整えてしまった。
きっかけは友人がその年の夏に河口湖へ行くというので皆で一緒に出かけ、その夜は友人の友人宅にお邪魔させて頂き、そのご夫婦がテニスをやるという事で私はそこから毎週末は河口湖でテニス三昧の日々をおくった。今思うと何でテニスにそんなのめり込んだのか不明だ。 相変わらず直感的だ。

でもそれが運命の扉を開く事になる。
私は山でのテニスに拍車がかかり、ついに家を借りる事になった。
その家はドイツ人の持ち物で友人夫妻のテニス仲間でもあり、こじんまりとしたロフト的な家でとても気に入った。 その後、大家さんに売りたいと言われ購入した。

数年はテニスに朝から夕方まで行き、まるで合宿所な感じだった。家の裏庭に美しく花を咲かせる桃の木があったのも2年くらい気が付かなかった。
そんな合宿生活の日々に突然行きがかり上、犬を飼うことになった。その犬はアラスカンマラミュートで生後一ヶ月でうちに来た。ワン太と名づけた。
ワン太はとても賢い犬だったが、とても手がかかった。
なので子育ての時期は河口湖にほぼ行っていて、今まで見る事がなかった風景と共に自然や人間関係に潤いが出た。不思議な巡り会いだ。それまでファッションの業界内しか知らなかったが、犬を飼う事により別の出会いと人生を学べ視界が広がった。

そしてあんなにテニスに夢中だった私はすっかりワン太中心の生活と仕事に追われていたある日の明け方、夢なのか寝ぼけていたのか不明だが、河口湖の隣の美しい西湖が目の前に現れ、その時に「私は西湖でカフェをやろう!」と突然起き上がった。

1999年の4月西湖の畔にCAFÉ Mをオープンさせた。私はそれまでバイトもした事もなければ飲食の経営知識も何も経験がなかった。ただ人は気持ちよい場所と美味しくセンスのよい店には来てくれる。それは解っていたし私自身も望んでいた。

特に観光地のそれらはひどいもので、適当でも観光地だから人は来るけれど二度と来ないのである。
私はその時既に河口湖の週末住民として7年が経過していて切実にわかっている事だった。
接客業はかつてのプレスの経験から何とかできたが、メニュー製作、管理、経営、は学んだ。
幸いシェフやスタッフに恵まれたが、最初の半年は誰もきてくれなかった。しばらくすると、その後はいわゆる行列のできる店になった。
私は経験上、田舎でも都会と同じ味と空間がありそこに湖と山を借景にリラックスできる場は観光客も地元の人達も待っていたものだったから成功したのだと思う。

本当にメチャクチャに身体が壊れそうになるまで働いたが接客業の面白さに達成感が加わり、今まで経験のない失敗や成功や、挫折感を味わう事によりまた新たな視点で生きていけるようになった。

CAFÉ Mを始めて5年が経とうとしていたある日、最愛の母が余命半年と宣告を受けた。私は2002年から平日は東京の株)JUNで広報室の顧問として働かせてもらっていて、金曜に移動し週末は西湖で働いていたので全く5年間休みがなかった。

なので母に会いに行く事もできなかった。その秋にふと、もうCAFÉを辞めようと思った。そこからは、愛犬のワン太が死に、母が亡くなり、父もその後に亡くなり、私は喪失感と共に言い表せない程の悲しみを味わった。

大切な人達を失う悲しさはどんなに慰められても自身で克服するしかない。
幸い私には仕事があった。
株)JUNの仕事は表参道のモントークの立ち上げも兼ねていたので、それらのイベント企画やハンドリングは大変だったが良い経験をさせてもらった。
結局JUNには8年間お世話になり佐々木社長には本当に感謝している。

私は河口湖の家にはずっと行き続けていた。一度自然の中での生活を味わうと都会での刺激より窮屈さが私には辛かったからだ。
河口湖や西湖で知り合いになった人達は今でもお付き合いさせてもらっていて、その中でその後の仕事に大きく影響される出会いがあった。
それは次回と言う事で。

 


著者プロフィール

『私のしてきた過去、現在。』不定期きまぐれ刊行 
icon_tanabe田辺 三千代

静岡県生まれ。
文化服装学院デザイン科卒業後パリ遊学。
アパレル会社プレスを経て1984年メンズデザイナー菊池武夫と共にTAKEO KIKUCHIブランドをチーフプレスとして支える。
1999年山梨県西湖にCAFÉ Mをオープンさせそれまでマイナーなイメージだった西湖を内外から認知された。
2002年(株)ジュンのPR室顧問として2010年まで在職する。
2005年既存の紙皿には和食は似合わないと発案し、WASARAブランドをプロデュース。現在世界中で販売されている。http://www.wasara.jp
2012年5月マガジンハウスから出版された「菊池武夫の本」に深く関わる。
2012年11月菊池武夫の旗艦店オープンに伴いキュレターとして参加。
2015年4月より広島の原爆の子に世界中から贈られる千羽鶴をリサイクル紙にし作った扇FANOを発案プロデュース。8/6の式典に寄贈し現在(株)カミーノと共にビジネスを進行中。www.fano.jp