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第2話 発酵(前編)

「蛸のサンダル見ましたよ」と声をかけていただいて、ありがたい限り。中にはニコ
ニコしながら「あ、あれでしょ、イカのスリッパでしょ?」と言ってくださる気鋭の
ベーカリーシェフもいて、(ちょっとちがーう)と思いながらも、感謝しております。

某日、パンを買いに少し離れたベーカリーまで。東京・南大沢にあるチクテベーカ
リーという可愛らしいお店で、この店の小さな黒糖のパンが気に入っております。

「くろパン、とっておきました」
とご店主の北村さん。とりとめのない世間話ののち、コラムのことに話がおよぶ。そ
うだ、蛸の絵を描いてくださいませ。えーっ、といいながら、彼女は紙とペンを厨房
に取りに行く。

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すらすらと書き始め、なんと一筆書きで完成。サンダルも、とお願いすると「おねえ
サンダルがいいですか?」と言う。おねえサンダルって? 世の中は知らないことだ
らけだ。

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おねえサンダルをはいた蛸。上手。
「スミも要りますかね?」

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ぴゅーっとスミを吐き出した蛸。バゲットも持っちゃったりして。
おおっ。なんですか? プロ?
わたしの素人チックなイラストが超はずかしいんですが。

無事、蛸イラストをゲットしたところで、話はパンのことへ。いま発酵の勉強をして
いる、というわたしに、パンの発酵?と尋ねるご店主。パン種を育てるプロの彼女に
対して、わたしは詳しいことを言い出せず、話題をそらせて店を辞した。

発酵の勉強。
それは、ぬか漬けのことなんです。
なーんだ、ですね。

そもそも、ぬか漬けをつくることになったのは、四国のとあるリゾートホテルでの会
話がきっかけで。

青い海と青い空がとびきり素敵なホテルのレストランで、サービスを担当してくれた
女性とシェフが口ぐちに「いま、ぬか漬けに興味があります!」と目を輝かせて訴え
てきたんですな。わたしが東京っ子で、食の仕事をしているものだから、聞けば何か
わかると信じている感じ。

残念だけどつくったことがない、と正直に言おうとした瞬間に、ここを紹介してくれ
た地元の方が「大丈夫、アサイさんならきっと詳しい返事くれるよ」と言い切ったの
でした。ああ・・・・。外堀埋めるの、よしてくださる?

というわけで、数日後、わたしのぬか漬けチャレンジが始まりました。

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すなわち、ぬか漬けキットを買い、そのままでは塩辛いので何度かキャベツで捨て漬
けし、暑い日には冷蔵庫の野菜室に入れ、涼しい日にはキッチンの隅においたりもし
た。

しかし、なかなかおいしくならない。

ぬか漬けの本や発酵の本も買い込んで読み漁ってみた。
ぬか漬けのうまみのもとは乳酸菌発酵。昆布やみかんの皮、山椒の実を入れるといい
と書いてある。

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昆布を入れてみたところ。

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偶然、ハウスみかんと小夏をいただき、高級メロンには目もくれずに「みかんがあ
る」と微笑んで、皮を100℃のオーブンでセミドライに。山椒も買ってさっそく、ぬ
か床に投入。

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室温環境ではなく、生地温度が大事ではないかと思いつめて、温度計をさしたり。

このまま数日おくが、まだおいしくならず、野菜から水気ばかりが出てきてビシャビ
シャの状態になってきたのでした。

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水気が出てきたときの処置として、水を捨てるか、ぬかを足すか、のどちらかの選択
となる。WEBなどを読みまくっても、いろいろと情報が錯綜するも、ぬか漬けの本に
「ぬかを足すべし」とあるのを頼りに、ぬかを足すことにする。まだ、本漬けもして
いないのだけど・・・!。

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生ぬかを追加。煎りぬかと生ぬかがあるけれど、乳酸菌を増やす目的なら生のほうが
いいだろうと勝手に判断。先日、お米を精米してもらったお米屋さんでわけてもらい
ました。感謝。

で・・・。

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数日放置したところ、やっと表面に白い膜が現れたのだった。これが「シンナー臭の
する産膜酵母」というやつですな。すごい臭気だ。シンナーというより、汗ばんだ男
のTシャツのにおいのような。

産膜酵母は好気性かつ酸を好むため、その下に嫌気性の乳酸菌が増えている証拠だと
いう。生地の底に送り込むと消滅し、うまみのもとに変わる、と書いてあって、いよ
いよ、うちのぬか床がおいしくなるのではないかと予感はさせるのだけど・・・。

わたしは考え込んでしまった。
このスゴイにおいのやつと同居していく自信が、ちょっとない。

乳酸菌がもっとも活動しやすい温度帯は20〜25℃と書いてあるが、冷蔵庫は5℃、野
菜室は10℃で、この温度帯をキープできない。ということは時々、室温に出して活性
化させなければならないのではないか? 手間はともかく、狭い家じゅうがまたこの
においに支配されるかと思うと、おそろしくてたまらない。

いっそワインセラーを買うか?
卓上型のペルチェ素子式だと温度管理が正確じゃないとも聞くから、いっそコンプ
レッサー型を。そうすると5万円台からかー。ぬか漬けのために?

一人で悶々とうなっているところに、例の男友達から電話が入った。第1話に登場し
た物知りな年上の悪友。要件が済んだあと、かれは不審そうに言った。
「おい、何かあった?」
勘のするどい人だ。わたしはカクカクシカジカで〜、とぬか漬けチャレンジについて
説明し、でもね、においが、と言いかけて黙った。汗ばんだ男のにおい、とはかれに
言いづらかった。

ふむ、と頷くと、かれは
「厄介なパートナーだな。捨てちゃえよ」
えー、そんな簡単に。リゾートホテルへはなんて言ったらいいのよ、と反論するわた
しに、こう言ったのでした。
「発酵体験がしたかっただけだろ。アミノ酸と微生物のことなら、おれが教えてやっ
てもいいぞ」

(つづく)


著者プロフィール
月刊連載『蛸のサンダル』毎月6日公開
icon_asai浅井 裕子

出版社 柴田書店勤務。外食業担当からキャリアをスタートし、料理技術、宿泊業、製菓製パンなど幅広いジャンルをカバーする食の編集者。パティシエの小山進さんや辻口博啓さんの書籍などを担当。「mook 洋菓子材料図鑑vol.4」編集長、「mook The Coffee Professional」編集長など。趣味はベランダ園芸。今夏はジャガイモとナスを栽培中。